第9場 恵み深き社交場
煌びやかな人々が集まっている空間は、室礼の豪華さもあり、まさしく社交場と呼ぶに相応しい。
この場にいる全員が必ずしも見目が良いわけではないが、身のこなしと発声が美しいと、容姿の優劣もさほど気に留まらなくなる。寧ろ、こうした本質的に上品な人々の中で姿だけ整った凡庸な者が動いたとしたら、却って見苦しさが際立つことだろう。そう思うと、鞍木の緊張は高まる。自分の外見に大した自信はないものの、では立ち居振舞いが洗練されているかというと、そう肯定できるほど自信家でもない。しかし、強張った精神状態でいるのも、彼一人である。言葉が通じず、周囲で繰り広げられている会話を理解できないのも、その理由のひとつかもしれないが。
鞍木に内容は解らずとも、優雅で気品のある音楽的な言葉が部屋の中を彩っている。
親戚か親しい友人かという気心の知れた関係の者しか招かれていないため、誰もが寛いでおり、楽しげだ。飲み物や軽食を管理している使用人たちとも気安く会話している客さえいる。
駆け引きめいた応酬が見られても、彼らの瞳に浮かぶ光は静穏だ。優位性を保とうとするような様子でいる者はいない。誰もが対等であるという空気、共通認識があるように感じられた。
気軽な集まりではあるのだろう。女性は誰もがシンプルな装いで、あまり派手な柄や色は身につけていない。アクセサリーも主張の激しくない、小ぶりで衣装に合うものばかりで、だからこそ本当に気に入っているものを選んでいるのだと解る。寧ろ、男性陣のチョッキのほうが、赤と黄のチェックだとか、灰色に紫のダマスク柄だとか、こだわりが感じられるものが多かった。
鞍木は自分からは輪に入らず、エリザベッタやヴィアトゥーレ夫妻が英語で話しかけてくれるときに応じるくらいで、あとは静かに周囲の空気を乱さぬよう、おとなしくしていた。
そうしていれば、人が接近してくるのに気づかぬ訳はない。鞍木は立ち上がったが、座るよう手で示されて、会釈とともに腰を下ろす。自然に周囲の人間が距離をとっていく。使用人が鞍木と主人の前に飲み物を置き、幾つかの小さな甘味やチーズ、サラミの盛り合わせも並べる。彼がずっと飲んでいたのはオレンジジュースで、ここに置かれたのもそれだ。ずっと見られて把握されていたことに驚きはない。名家の使用人には当然のことだろう。そして、執事の通訳を介しての会話が始まった。
「この老いぼれの願いを聞き入れてくださり、感謝していますよ」
「いえ、望外の幸運に恵まれたことを喜んでいるのは、こちらのほうです。卿のお力添えに感謝を申し上げます」
和やかに始まった会話だったが、すぐに風向きが変わる。
「しかし、拠点を欧州に置く決断にまでは至らぬようだ」
「それは……彼女自身にとっては願ってもないことだと思います。ただ……」
「
言い澱んだ鞍木の前に、ロレンツォの微笑みは不動の霊峰のように聳え立つ。麓に近づくほどに、吹きおろす風に冷たさが増す。
「彼女は自分の道を歩んでいないようだ。今でさえも」
沈黙は肯定にしかならない。
そう解っていて、それでも鞍木は明確な返答に迷う。
「……それでも、イタリアでの仕事を受けると決断したのは、彼女自身です」
漸く言葉を返したが。
好好爺の雰囲気を放ちながら猛禽めいた光を瞳に宿すロレンツォには、さほど通じていない。
「貴方を伴わせるというのも彼女の決断ですか?」
──それは性急に過ぎた。あのときも、今であっても
「いえ、妥協であったでしょう。彼女にとっても、我々双方にとっても」
──
折橋の保有資産は株や不動産など不労所得のものが多く、仮に兄妹が働かなくとも、慎ましい生活を送るならば問題はない。だが、税金も多く収めねばならないことから、そうした場合は、いずれ所蔵されている楽器を手放していかなければならなくなるだろう。あれらの維持管理にも費用が嵩むためだ。その上、先代の頃からの使用人一家の生活も抱えている。外から見えるほどの余裕は無い。堅人が文筆業で稼ぐのも限界はある。彼が演奏家として活動するほうが収入は上がるだろう。しかし、それを彼自身は積極的に望まない。無理からぬとはいえ、彼が妹以外と共演することは、珍しい。そして、彼は妹を衆目の前に立たせたがらないのだ。鞍木の両親が尽力していなければ、そして結架の叔母夫妻からの遺産がなかったなら、資産の維持すら難しかったかもしれない。
「ロレンツォ卿。私たちは以前から、折橋兄妹に欧州を主として演奏活動をしていくよう働きかけてきています。これまでの成果が今回の渡伊であると申し上げますと、ご理解くださるでしょうか」
すると、彼は眉を
「市場規模からして供給過多であり、日の目を見ない志高い音楽家は大勢います。だというのに、それを自ら望まないというのは、天才にしか許されない傲慢でしょうな。貴殿方のご苦労は理解しましたよ」
「ありがとう存じます」
「……彼の演奏を、わたしは知らない。だが、そのヴァイオリンもフルートも、悪魔的なほどに巧緻で美しいと聞いています」
「そう訓練されてきましたから。幼い頃から、容赦なく」
「そうした子どもは多いものです。しかし、実らせられる子どもは少ない。彼自身の努力も勿論でしょうが、才能もあったことでしょう」
「私もそう思っています」
ロレンツォは意外にも、目を伏せた。
「運命は皮肉です。ピアニストを諦めて作曲家になった者が後世に伝えられる傑作を幾つも生み出していても、満ち足りて幸せに生きていたとは限らない。しかし、わたしは、彼女が幸福を感じながら音楽を続けていけるよう、手を貸すつもりでいます。彼女の伴侶には、弟が手を貸すでしょう。そうすべき価値が、二人にはあると思ったからです。ですが、何の見返りもなくそうしようとまでは考えていません。この世は物質世界でもありますからね。わたしの財産も命も有限です。どれだけ時間をかけても良いとは言えないのですよ」
「お申し出を戴けるだけで、大変に名誉あることだと解っています、ロレンツォ卿。過剰な期待を抱くことは堕落であることも」
小さな忍び笑いが聞こえて、鞍木は息を呑む。
「貴方はマネージャーでしょう。過剰な期待を抱いて後援を取り付けるのは仕事のうちですよ。気に入られる程度に強欲であればよい」
緊張が弾け、鞍木は一気にグラスを空ける。喉が渇ききっていた。酸が食道を焼くように感じたが、口中は潤った。
「──ご尤もです。では、そのように致しましょう」
カヴァルリ家の頂点に立つ老紳士が、満足そうに笑んだ。
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