第8場 高まる懸念と深まる疑念(2)

 即座に返事をした鞍木の楽しげな目に鋭い眼光を返したのは、一瞬のこと。扉が開いたときには、既に表情を安穏としたものにさせている。

「鞍木さん──え、集一?」

 どうしてと言いたげな彼女に、鞍木が何気ない調子で言った。

「さっき廊下で出くわしてね。ちょっと話し相手になってもらったんだ。退屈で仕方なくて」

「そうなの。それなら、鞍木さん。一緒にいらして」

 結架は言葉通りに受け止めて、流す。そして、どうやら切迫しているらしく、早足で入ってきて彼の腕を掴むと、返事も待たずに歩き出した。

「え、結架くん、ちょっと──」

「集一も、出来たら早めに戻っていらして」

「ああ、分かった」

 常にはない強引さに、二人とも逆らわない。

 鞍木は結架に引っ張られて歩いていく。

 集一と合流して二日後あたりから、結架は先導の案内なしでも屋敷内を歩けている。暮らしている生家も広くて複雑な造りをしている彼女にとっては、カヴァルリ邸の規模でも大したものではないらしい。迷いを見せない足取りで応接リビングに着いた。

「どうしたんだ?」

 ピアノの前で、ついに鞍木は訊いてしまった。

 雰囲気が細く引き絞られ、空気が薄く感じられる。それは、結架が神経を張りつめている所為だろう。確かに、集一の言うように不安定なようだ。

「……ちょっと聴いてくださるしら?」

 鞍木が頷くや否や、結架は椅子に座って位置を確認する。そして、深い呼吸をして姿勢を整えた。

 静かで柔らかな和音。広がる旋律。

 ──ショパンか。バラード第二番へ長調、作品三八。

 穏やかに始まる静かな平和が破られるのを知らなければ、突如、爆発する音に吃驚してしまうだろう。

 瞬く星のもと、寝そべって、晴れ渡る満天の空を眺めて眠りに落ちそうな安息に慣れたころ。僅かな不穏の予兆に気づきかけた、そのときに。

 猛烈な速度で下降する右手と、近づく左手の齎す衝撃。稲光とともに落ちた雷の直後、叩きつけるような雨と暴風が襲いくる。だが、それも長くは続かない。通り雨だったかと安心して目を閉じて、緩やかに眠りかけ、先ほどの驚きを可笑しく思い出し、夢の世界に身を任せようとした、その瞬間に気づく。嵐が去っていないことを。そのまま荒れる雨風に翻弄され、痛めつけられ、やがて斃れる。困難は終わった。最早、何物も襲いくることはない。ここは閉ざされた墳墓の中。

「……どうかしら」

 訊かれるまで、鞍木は余韻に浸っていた。

 棒立ちで聴いていたので、身体が強張っている。

「見事だよ」

 一言だけを告げた。褒め言葉であるのに、結架は顔を顰めた。

「本当に? 昔のように弾けていた?」

 直前に迫った演奏会を不安に思っている彼女は少女の顔をしている。自らを過信しないのは立派だが、自信がなさすぎるのも考えものだ。

 鞍木が愉快げに笑む。

「昔より、今の演奏のほうが胸を打つよ。まあ、長期間のブランクがあるから、技術的には腕が落ちているかもしれない。でも、このテンポのほうが好みだな、おれとしては。感情表現は当然ながら成長している。全体的にタッチの強さも子ども時代より発達しているから音の通りが良くなっているが、運指の正確さとペダル操作の巧みさで濁ることはない。つまり、見事だよ。なあ、集一くん?」

 振り返ると、リビングの出入り口で、集一が立ち尽くしていた。中座した理由そのものであるリードの調整は不必要なものだ。彼は、そのまま二人とともに戻ってきていた。少し距離をあけていたので、結架は気づいていなかったが。

 そして、彼は、珍しく呆けている。

「……集一?」

「あ……」

 我に返って、すぐに微笑んだ。一瞬よりも短い僅かなあいだの、ぎこちなさを経て。

「うん。素晴らしかった。劇的で、幻想的で。第一主題の柔らかい感触の音も、胸の奥にまで届くようだった」

 静かに告げられる絶賛に、結架の顔色が明るくなる。

 そのまま恋人たちは曲の解釈や表現について語らい合い始める。

 鞍木の胸中に去来した感情を、知りようもなく。

 集一と話していた時には気づいていなかった変化を、彼は察知した。

 結架の心の安定が、音楽だけでは保てなくなってきている。

 それを、日本に帰国したら、暫くの間は支えなくてはならないだろう。ほぼ、孤立無援で。

 思い巡らせる考えの大半が祈りで占められてきていると自覚して、鞍木は胸が痛んだ。けれど、判っていたことだ。少女はいずれ、羽化して飛び立つと。そして伴侶を見つけるのだ。生涯を寄り添って過ごす、代わりなどない、おのが半身を。それでも彼は努力する。このときを早めたのは自分であるのだから。憐れまれることを侮辱と感じる、誇り高い音楽の悪魔に向けるべき言葉を探して。

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