第8場 高まる懸念と深まる疑念(1)

 時が過ぎるのをこれほど早く感じるのは、結架にとっては初めてのことだ。

 カヴァルリ邸での日々は充実していたものの、その分、感覚的には駆け足で時間が過ぎ去るようだった。惜しむ間すら碌に与えられず、気がつけば夜となっている。また一日が終わってしまったと嘆いているうちに朝が来る。

 日々の欠かさない基礎練習だけでなく、今回の演奏会のための膨大な練習と、その合奏に関する集一との相談と議論。

 ロレンツォからの誘いで休憩をとり、早めに来訪した滞在中の親族も交えてお茶とお喋りを楽しんでいても、追い迫る脅迫観念が消えない。しかし、心を隠すのは常のこと。結架の顔から笑みが消えることはない。日を追う毎に強まる負の感情を持て余しつつある彼女の異変を察知したのは、集一だけのようだった。結架が悲しみを隠しきれなかったのは、彼の前でだけであったから。

 その異変の予兆を感じたからこそ早めたとも言える結婚の申し込みだったのだが、将来の約束を交わして安定すると期待した結架の精神状態は、しかし朝を迎える度に揺れ幅を大きくしている。

 毎夜、しっかりと彼に抱きついて眠ろうとされては、流石におかしいと思うものだ。それでいて痛みを堪えるような様子でいる。なのに、頭痛でも腹痛でもないと言うのだ。親の姿を目にしてその体温に包まれていないと闇夜に恐怖する、無力な幼子のように。心配しつつも打てる手がなく困り果てた集一がとった行動は、当然ながら。

「──あれ、集一くん? まだ練習中の時間だろう、どうした?」

 鞍木の部屋を訪ねることだった。

「ええ、鞍木さん。ご相談したいことがあります」

 リードの厚みが甘かったので少し削ってくると結架に告げて抜け出してきた集一は、少しばかり焦っていた。他にもっと時間的余裕のある言い訳を思いつかなかったのだ。

 だがしかし、鞍木の察する能力は、ずば抜けている。

「なんか、深刻な感じか?」

「些か」

 短く答えた集一は室内に招かれ、手振りで示された椅子に腰掛ける。

「結架くんには内緒か」

 テーブルの上に伏せられた本は文庫サイズだが、合皮の茶色いカバーがかかっている。その横に楽器を置いて、集一は答えた。

「その結架のことですから」

「ふうん。そりゃあ、いい傾向だな」

「はい?」

 あっけらかんとして危機感のない鞍木の様子に、集一は遠慮なく不快感を示した。それも鞍木にとってはいい傾向だ。結架に関して集一は鞍木の顔色を伺う必要はない。そして、優位性を競うべきでもない。集一こそが結架にとって絶対の存在となりつつあるのだから。

「君が結架くんにとって共にありたい存在になっているのは誰の目にも一目瞭然だ。実を言うと、彼女は少々、繊細でね。でも、君と出逢ってからは強くなってきている。箱入りで育ってきているから危なっかしくはあるが、友人を庇うことも、恋人きみにまっすぐに気持ちを伝えることも出来るようになった」

 矢張り、鞍木にも結架は打ち明けていない。

 集一は深い溜め息をついた。

 そして。

 結架の精神的安定性が損なわれつつある。

 そう集一が訴えると。

 鞍木は一瞬、目を見張った。

 しかし。

「君から離れたくないんだろう。それだけだよ。そろそろ実際にそう口にしてもいい頃だな」

 その言葉は、とっくに聞いている。このところ毎晩。

「僕は結架と別れるつもりは微塵もありませんよ」

 抗議するような語調に、鞍木は笑い声で応えた。

 集一が憮然とする。

 婚約について、実は結架は鞍木に告げていない。一緒に話しに行こうとした集一を止めたほどだ。彼女はその事実を日本に帰る機上で鞍木に話すつもりでいた。対策を話し合うために。しかし、それは集一には知りようもないことだ。

「……日本に帰国するってことは、結架くんにとっては君との別離も同然なんだよ。それも、ただ一時的な意味じゃなくな」

「何故なんです? 僕としては、現在予定している仕事を終えたら、一旦日本での生活基盤を見直すつもりです。暫くは日本国内の仕事に絞って、結架と相談しながら、将来的に互いの家族に紹介する機会を作ろうと考えています。結婚を見据えて。それは結架にも話して、承諾の返事を貰っていますが」

 かねてから予測していた鞍木は驚かない。

求婚プロポーズ成功ってことか。良かった。おめでとう! それと、まあ……そりゃあ……承諾の気持ち自体は、疑う余地なく本心だろうな」

仰言おっしゃる意味が解りません」

 ──あまりけむに巻こうとすると、本気で怒らせそうだ。

 鞍木の警報システムが赤いランプを灯した。

「おれの口からじゃなく、結架くんの口から聞いたほうがいい。なかなか君に打ち明けようとしないのは分かってるし、おれも見ていて歯痒いんだが、まだギリギリ日数もあるから、あと三日。待ってみてやってくれないか?」

 即答せず、集一は数秒間、考え込んだ。

 やがて口にしたのは返事ではなく、確認だった。

「僕はまだ結架の信頼を得られていないんでしょうか」

「いや、それはない」

 食い気味に前のめりで鞍木が答える。

「信頼がどうこうじゃない。問題は、結架くんが君を巻き込むことを恐れているってことだ。極度にね」

 ──私、あなたを巻き込みたくないの。

 集一は更に溜め息を吐いた。目を閉じて言う。

「それが不可解なんです。一体、何に巻き込むって言うんですか。別に彼女の親族が骨肉の争いを繰り広げているわけでもないでしょう。僕を守ろうとしているのは知っていますが、何からです? 結架を脅かしているものを排除するのに何らかの力を使うことは吝かではありません。そのためなら、実のところ子どもの頃から敵対関係にあると言ってもいい父に頭を下げることも辞さないと思っているくらいです」

 平然と剣吞なことを口にする彼がれているのを、鞍木は理解した。結架と話す必要があると切実に感じ、とりあえず目の前の、結架のこととなると明確に苛烈な人物を宥めることにする。

「了解した。君以上に結架くんの力になれる存在はいないだろう。何しろ結架くんだけに味方しているんだから。それに、君の傍であればいつも、んだから、本当に大したものだよ。これからも頼むよ」

 怪訝な表情をした集一だったが、扉を叩く音に腰を浮かせた。その音の強さとテンポで、誰が来たのか判ったのだ。

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