第7場 約束の見せる夢(2)
不意に彼女は微笑んだ。
「それなのに、こんなに甘やかな曲調の作品を書けるなんて、不思議ね。残酷で身勝手で、不誠実な行いが伝えられているのに、優しさに満ちた作品からは模範的な紳士の姿が見えるの。多分、実際は〝どうして誰も私を理解し受け入れてくれないのか〟という切なさをこめて音符を綴っていたのでしょうに」
見上げてくる彼女の両眼にある感情は、決して拒絶には見えない。口では嫌いだと突き放していながら、実のところは許容しているように見える。
まるで、自分自身も、そうしたやるせなさを抱いたことがあるかのように。
そして、それを自嘲する。
悲痛な諦観の兆しが見えた。
何故か、彼女が孤絶感を深めているように思われてしまう。自分が傍にいて、そんな悲しい顔をさせたくない。
集一は、ずっと考えていたことを結架に伝えることにした。本当は、彼女が日本に帰る直前に勇気を出すつもりでいたのだが。
「……この依頼が終わったら、だけど」
その言葉は劇的なほど結架の表情を変えた。
内心では慌てて、しかし表面的には落ちついた態度を保ったまま、凍りついた頬に手のひらをあてて温める。親指で撫でると、沈痛な表情が少しだけ和らいだ。
この依頼が終われば結架は日本に帰国する。だが、集一は欧州に残るのだ。次の仕事はフランスである。
「僕の決まっている仕事は、リヨンの演奏会で一段落するんだ。それから暫くは日本国内の仕事に限定しようかと思ってる」
見上げてくる不安げな瞳に、微笑んだ。
「きみとの将来を調えたいから」
「え……?」
みどりをおびた明るい茶色の瞳に、陽光がさしたかのような煌めきが閃く。その美しい澄んだ色が眩しい。どんな宝石よりも輝かしく、集一には貴重だった。
集一は結架の頬から手を離し、ピアノの前に座る彼女に正対して跪く。視線を彼女から離さずに。
細い手をとった。力強い響きをも生み出す、手と指。注意深く丁寧に扱わねば折れてしまいそうに思えてしまう、か弱い存在。しかし、いざとなれば自己犠牲をも厭わない、強い信念をも持つ女性。戸惑う彼女に真っ直ぐに向き合った。
「僕と生涯をともに生きてほしいと今きみに願ったら、早すぎるだろうか?」
結架が息をのむ。
瞠られた目が映している自分の顔に自信が見えるよう、密かに気合を入れる。
「ここ暫く、きみと離れていて、強く思ったことがあるんだ。きみは僕を守ると言ったけれど、僕もきみを守るつもりでいる。法的に認められた婚姻関係になることで全てが解決するわけじゃないし、きみが安心しきれるかというと、僕には確信が持てない。でも、僕にとっては必要なことだ。きみにも必要かは分からないけど……」
結架は空いているほうの手で自分の胸を押さえた。声が喉の奥で渦巻いて、出てこない。その焦りから、結架は激しく首を横に振る。絶対に、自分にとっても必要だと彼女は感じた。きっと彼よりもそうだと。
小さく笑って、
「結架。きみに僕と結婚してほしい」
自分でも驚くほど真剣な響きの言葉が発された。
ぎゅっと握られる手の力の強さにも答えが込められている。
集一に疑いはない。
けれど、この期に及んで結架の心は恐怖の蔓で縛られたままだ。
ようやく絞り出したのは、承諾であり、懇願だった。
「集一、私、あなたを巻き込みたくないの。なのに、きっと貴方から離れられない。離れて守るほうが確実だと分かっているのに。私には自分から離れるなんて出来ない。望んでいるのは私のほうよ。私こそ必要としているの」
恐れるからこそ、強く願ってしまう。
「私と結婚してほしいの、集一。私を貴方の生きる場所に連れて行って」
未だ集一は結架の抱える問題の全貌を掴んではいない。
けれど、未来を共有する約束を交わすことを躊躇わなかった。
夢見た生活を叶えるのに必要なものを揃えていく。
「喜んで。きみの生きる場所が、僕の生きる場所でもあるから」
腕を広げるだけで、次の瞬間には結架は胸の中にいる。抱きすくめると、ほぼ同じだけの力が返ってきた。そうして結架は、しっかりと彼が存在することを確かめる。
「……ありがとう」
囁きかけた結架の言葉は、集一の耳に届く前に、彼の胸の中に染みていった。彼女の熱い息とともに。
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