第7場 約束の見せる夢(1)

 カヴァルリ邸での演奏会での曲目のうち、未だ数曲を選びかねている二人の様子を耳にしたロレンツォが、面白いことを言い出した。それを実現させた場合、練習する曲を絞り込むことが出来なくなる。とはいえ、突然に助っ人として呼ばれ、代打演奏エキストラすることもある集一には、それほど抵抗はない。結架はそういった経験がないので暫く難しい顔をして黙考したものの、これこそ私的な場所での演奏会でしか許されない楽しみになり得ると朗らかに言われると、それもそうかと納得するだけでなく、つい期待に応えたい気持ちになる。

 ということで、結架は個人練習の時間も増やすことにした。その間の集一はといえば、演奏に欠かせない発音体リード只管ひたすらに作っている。葦材や針金、糸の屑が出るような作業は用意された美術品を修復する作業部屋の片隅を借りて行い、チューブに取り付けたケーンに糸を巻いて固定したりフィッシュスキンを巻いたりといった作業に関してはピアノを弾く結架のかたわらで行った。そうして欲しいと結架も望んだからだ。

 カヴァルリ邸にあるピアノは二台。楽譜を鞍木から渡されたときに説明されたように、一台はファツィオリ社のピアノだ。結架の母が最後に愛したピアノが、当時、創業したばかりで新しいピアノだった、この楽器だ。母は三年ほどで亡くなってしまい、以降は叔母夫妻に引き取られたため触れなくなってしまったものの、結架の最初のピアノでもある。ペダルに足が届かなかった頃の愛器。

 そして、ベヒシュタインは、フランス留学時代に師に連れられて訪れたストラスブール音楽院で触れたことがある。今も鮮明に覚えている、あの興奮が甦った。

 ベヒシュタインの響きは、絢爛の一言ではとても足りない。安定感のある土台を持つ輝きは驚異的なほどで、アップライトとは思えぬ音の広がりと深みがあり、何よりも、反応が早い。指に伝わる内部の響きがダイレクトかつ鮮明で、音の減衰が速いために和音の透明度が高く、美しい。重厚かつ厳粛に威圧感ある神聖さを感じさせつつも、高貴でありつつ親和性に優れた軽やかさをも聴かせる、表現力の幅広さ。

「凄いピアノだわ!」

 初めは躊躇いが消せなかった結架であったが、このピアノの魅力にすぐに夢中になった。

 一音の光度が高い。放射される響きが多く聞こえる気がする。

 低音の厚みは頼もしいかぎりだ。

 それでいて高音は甘く、柔らかい丸みを帯びている。

 そして、全体の音は、どこまでも遠くへと飛んでいきそうだ。

 どの音でも均等の安定性。全くぶれない。完璧な、欠点の見当たらない音響。

 ──なんて豊潤なの。

 ペダル操作の反応も早い。

 多彩な表現は、ピアノのなかでも秀逸だろう。雑味がない、しかし、単純でもない。層が幾重にも重なっていることで、和音の中のどれもが耳で選び取れる。まさしくオーケストラのようだ。

 つい、集一は手を止めてしまった。

 数秒間、結架は鍵盤を見つめていた。

 やがて。

「──ピアノ音楽は、ベヒシュタインのためだけに書かれるべきだ」

 あまりにも有名な言葉を引用して呟くと、指を鍵盤に添わせる。

 クロード・アシル・ドビュッシー作曲、『映像』第一集より『水の反映』。

 泡立ち流れる水面に映る、揺らぐ像。儚い一瞬の影。

 雄大さと、繊細さ。

 打ち寄せる波。流れていく川の先。

 水の上に浮かんで広がる花弁や若葉。

 空と雲を映す湖面を陽光が照らす。

 東欧的な静寂が美しい。

 そして、同じくドビュッシーの『アラベスク第一番』。

 織りなす輝きを思わせる、万華鏡を回すかのような、ぐるりと廻らされた軽やかな曲。

 ドビュッシーは水と光の音楽家だと集一は想う。

 冷たく硬質で、けれど、あたたかく。

 結架の指先が生み出すドビュッシーは、おしゃれで品が良い。爽やかに澄み渡る。

 それなのに。

「……私、実を言うと、ドビュッシーは、きらいなの」

 夢を語るような甘さの、静穏で端正な演奏を終えると、結架が呟いた。

 そう言う彼女の感じたものに思い当たるものはある。

 彼は同時代の社交界の人々から、散々な評判を得ているのだ。

「内向的で非社交的だったと言われるような人柄で、音楽院でも反骨精神の権化みたいな言行をしていたのに、何人もの女性をまるで自分の精神安定のために使い棄てるような所業を繰り返していたから?」

 身も蓋もない集一の言いように、結架の笑みに僅かな苦みがさす。

「彼は母親からの大きな期待と強烈な失望に傷つけられたせいか、恋人に慈母のような寛容さを求めたのね。でも、規則や規律、慣習に反抗心の強い性格が頑固に自分の理想を彼女らにも強いて、そうでないものは許容できない。なんの疑問も罪悪感もなしにして相手が命を絶とうとするまで追い詰めるなんて。

 語る言葉を重ねるごとに、結架の顔色が灰色になっていく。

 まるでドビュッシーが知人であるかのような言いようだ。

「結架」

 みどりをおびた茶色の瞳が、くらく澱んでいって。

「ベートーヴェンもそう。相手に理想を見ようとするの。〝この人だから愛する〟ということをしない。理想に近しい人間の、その部分しか求めずに。そうして訪ねてくれた人の前に、自分の譲れない思いを門のように建てて、そこをくぐれない者や躓いた者は門前払いするのだわ」

 そんなふうに彼女が誰かを批判めいた言葉で非難するのは、初めて聞いた。

 ──ユイカと彼女の肉親は、死者たちに支配されているのよ。

 死者たち……音楽史上の有名な作曲家たち……彼らのことなのだろうか? 

 だが、あのときラウラの言葉は更に難解に続いていた。

 彼らの残した厳しい規則に縛られている。結架がおそれ、怯えているのは、死者からの罰だと。

 厳しい規則というのは兎も角、この世を去って久しい、彼らからの罰とは、一体何だ?

「──だから、ふたりとも、きらいよ」

「結架……」

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