第4場 研究者による研究者自身の萌えの定義

 手入れのために並べられていた作品を一通り見た後、話が弾んで止まらない女性たちは座って会話することにした。

 ヴィットーリアが案内した、保管庫とは反対側にある部屋は、仮眠室どころか、もはや居住空間だった。小台所と呼べるほどの設備と、ベッドにもなるソファとテーブル、単身世帯にありそうな冷蔵庫まである。鍵付きの書架が壁一面を占めており、ここ二十年分の収蔵品目録や、稀覯本、美術品の研究書に画集まで並んでいて、本来は書斎だったのだろう。実際、研究書と画集については、その殆どがヴィットーリアの私物で仕事道具である。

 ここで彼女はいつもカヴァルリ家の所有品を管理しつつ歴史的な調査をし、場合によっては修復をすべきかどうか検討するための資料を作る。寄贈や貸与に望ましいか否かの判断材料を揃えて品目表を作成することも多くある。価値を見極められる人間にしか出来ない仕事だ。

 作品の素材、製作年、作家。

 作品の題材、製作理由、来歴。

 カヴァルリ家が供出するに相応しい時機、対象、事由であるか。その判断は重要だ。例えば国際的祝賀行事の場に豪華で見栄えが良く大家の手掛けた作品であるからといって残虐で血腥い物語の一場面を描いた綴織壁掛タペストリーを掲げるような、取り返しのつかぬ低劣を晒さぬように。

 小台所で用意されたマキネッタの珈琲を味わいながらヴィットーリアのカヴァルリ家所有美術品解説は続き、画家や彫刻家の逸話やら、時代背景となる文化についてやら、次々と繰り出される興味深い視点の語り口に結架は熱中した。懐かしい、少女のころにあった時間を思い出す。教科書では知ることの出来ない、ちょっとばかり不道徳とも思える、生きた人間としての芸術家たちの一面。興奮が高まって、ほんの数分、ロレンツォが中座したことも気づかぬほどに楽しく会話していた。

 そして、邸宅の主人あるじが戻ってきたとき。

 彼は一人ではなかった。

「結架」

 後ろから呼びかけられた、その声に。

 結架の心臓が跳ねる。

 涼やかな、愛情深い響きをした声。

「──集一……?」

 立ち上がって振り返ると、温和に笑む彼が近づいてきていた。

 細い縦縞の入ったシャツも、僅かに青味のある黒いスラックスも、着用者の微笑と同じく疲れなど見えない。まるで身繕いしてから登場したように。

「ただいま」

 ふわりと回された彼の腕が、優しく結架を閉じ込める。

 爽やかでいながらも甘く香るマグノリアに、夢を見ているような気持ちがした。ぼんやりと、無意識に抱擁を返しつつ応える。

「おかえりなさい……」

 耳許で微かな笑声がして、結架は我に返った。

 顔を上げて、集一と目を合わせようとする。

「私、空港まで迎えにいくつもりだったのに」

 すると、瞳にも笑みを浮かべた彼の、楽しげな声が響いた。

「うん。でも、ちょっと驚かせたくて、ロレンツォ卿に足止めしてもらうよう頼んだんだ」

「ええ、驚いたわ」

「なら、成功だ。ロレンツォ卿、ありがとうございました」

「ちょうどヴィットーリアの作業日でしたからね。ご要望に添えて何より」

 鷹揚に頷いたロレンツォを鞍木が見る。彼は結架の視線が遮られたままでいるのを承知の上で、にっこりとして唇に指を立てた。それを見た鞍木は何かを察する。だが、ここでも彼は余計なことは言わない。

「ごめん。空港で会いたかったかい?」

 そう訊かれた結架は、小首を傾げた。

「いいえ。どこでだっていいの。ちょっとでも早く会いたいと思ったから迎えに行きたかっただけだもの」

 深く考えることなく、ただ率直な思いのままに告げられた言葉と素直で純真無垢な声音。本心をそのままに明かしただけに過ぎない、なんの狙いも思惑も抱いていない、純粋可憐な表情。その妙美に、全員が天を仰ぎたくなった。

 ヴィットーリアが自身の鼻梁を摘む。

 早口のイタリア語で、

「……モンシニョール、私、ここ数週間で一番、魂が熱くなった気がします。多分、これって、最近の日本人の言うところの〝attaccamento alla carineria〟だと思います」

 熱っぽく告げる。

 それを聞いて、目を細めているロレンツォが忍び笑った。

「おや、また〝可愛らしさへの愛執萌え〟とは、日本人の感性は独特で斬新ですね。ですが、解るような気がしますよ」

「そうですよね。だから、日本って最高です。はぁ。話に聞くだけじゃなく行ってみたい……美味しいものも多いっていうし、和紙を色々見たいし……」

「先ほどの『天望澄明』ですが、以前より日本の紫紅記念館から貸出の請願がありましてね。展覧会の企画で、現存する全ての『天望澄明』を展示したいのだそうです。まあ、いつになるかは不明ですが、ヴィットーリア、管理人として渡航しますか?」

 思いがけない問いかけだったが、ヴィットーリアは食いついた。両眼に爆発的な光を宿して、雇用主を見つめる。ぎゅっと握った両手を震わせて、

「いいんですか⁉︎ 行きたいです! 是非、行かせてくださいっ」

 叫ぶように願った。

 その大きな声に日本人三人は目を見開いてしまう。

「ああ、驚かせてすまないね。ヴィットーリアも美しいものや愛らしいものに目がないもので。日本に憧れを抱いていることもあって、ここに貴方がたが揃っているのを喜んでいるのですよ。そろそろ昼食ですから、良ければ皆で食堂に行きましょう。そこで、日本について聞かせてくださると、わたしも嬉しいですね」

 決して崩れぬ安定した笑みが、場の穏やかさも維持する。

 三人は頷いた。

「実は空腹なんです。ありがたく戴きます」

 集一が丁寧に礼を述べてロレンツォが応えると、結架がここの食事がいかに美味しいかを彼に訴えだす。途端に幼気いたいけな雰囲気を濃くする彼女の微笑ましさに、一同は更に萌えたのだった。邸宅に勤める他の人間たちと同じように。

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