第3場 全地よ、天に向かいて歓呼の声を上げよ(2)

 広い台の上に広げられているのは、見覚えのある水墨画だ。

 山岳が雲を貫く、豪壮な風景。

 淡く広がる裾野から画面の下に広がる川の流れるさまだけが、僅かに違う。以前に観た作品に対し、これは下流の川幅が広い。

 色相に種類はなく、明度と彩度の違いがあるだけなのに、画面には光を感じる。救済と希望の光。

天望澄明てんぼうちょうめい……」

 呟くと、ヴィットーリアの弾んだ声が返ってきた。

「あら! このをご存知ですか。素晴らしいですよね。シコウ・イマムーラは、同名の作品を幾つもえがいていて、これは最晩年に制作されたものです。円熟の極みと言いましょうか。この川の流れる先に私たちが立っているように感じられて、初期作品と比べて構図に変化が見えます」

『天望澄明』。

 今邑紫紅の作品。〝地の眺めは天の反映であり、地が澄めば天も安らぐ〟という文が台紙の裏に書かれていると集一が説明してくれた、あの……。

「これは地の眺めであるけれど、天の反映でもある。美しく壮大で、きよい。この画面に人間の姿は無くとも、流れる川の水が人々の罪や悪念をきよめるように頼もしく広がっていく。鑑賞者のそれをも」

 恍惚とした声音。

 広げられた画に注がれる視線は強い憧れを宿している。熱量の高いまなざし。芸術に魅入られ、熱に浮かされているかのような姿。それは音楽家にもよく見られる。長く伝えられ残ってきた作品の有する、得も言われぬ美しさに酔うのだ。

「天が安らぐような清浄な地の光景もまた、天の反映。西洋にも東洋にも、天国と地獄という概念がありますが、それを地上の世界と密接に結びつけて互いに影響し作用するという思想は興味深いです。作品を一瞥しただけでは察せられなくても、台紙の裏にある書を理解すれば、また味わいが変わります。奥深いですね」

 ヴィットーリアの語調から、ふわふわとした夢見るような響きが消えた。理知的で、学術を深めたそれへと変わる。

 山の峰から空、雲の部分を示しながら、

「墨の濃さ、水の量で変わる色合いや滲みの技術が計算し尽くされていて、この濃淡が美の極致です。光の表現も線が細やかですね。絵師ひとの手で自然の姿を最大限に美しく表現しうるよう、技巧の限りを尽くしています」

 熱弁をふるった。その言葉のとおり、細部にも気を配った筆致が見える。

「自然の美しさに人の営みが調和できれば、この絵のような光景を保つ文明が維持されそうですね」

 鞍木の現実的な発言に、異を唱える者はいなかった。

 ロレンツォの静かな声が流れ出る。

「人間の欲など、自然界の動きから見れば、些末なものです。しかし、それが世界を壊すことも多い」

 人生の重みを乗せた、深みのある声だった。

 穏やかな瞳の奥に哀しみが燃える。

 画面の中の平安と、画幅の外の混沌を、等しく見つめて。

「……しかし、欲そのものが悪なのではなく、欲に行動を支配されることが悪なのです。欲を制御し、ただ行動の動機として扱えるのであれば、寧ろ繁栄をもたらす発展を望めます」

 誰もが彼の言葉に集中した。

「欲という理由があってこそ、人は努力を重ねることも出来ましょう。ですが、そうではなく、ただ欲にかられて利己的に振る舞うようになれば、他者を踏みつけ害しても自己を正当化して責任逃れし、負うべき罪を別の誰かに着せるのです。愚かしくも醜い所業です。己がどう考えていようと、そうした行いは不名誉となり、その名を自ら汚すでしょう」

 淡々とした声の中に抑制された怒りを感じ取った一同は沈黙した。常にはない、その燃える暗い感情が、静かに、しかし激しく、ぴりぴりと空気を張りつめさせる。長年に亘って大企業を支え発展させてきた人物の凄味があった。

 言葉を探す三人の気配を感じ取ってか、ロレンツォの唇が弧を描き。次に発された柔和な声には、意識的に足されたらしい明るさが増していた。

「美しい芸術から感じとるものは、さまざまですね。人により、また時代により、得るものや気づくものは変わりますが、与えられる感動は同じくでしょう。貴女の演奏もそうです、ユイカ。貴女が多くを学んで、研鑽して奏でている音楽は、多くの人を感動させるでしょう。そして、またそれも、誰かの学びとなるのです」

 柔らかい、穏やかで優しい表情に戻った。思わず結架は、胸を撫で下ろす。

「そのように仰っていただけるなんて、光栄ですわ。まだまだ、音楽家としての熟達は遠く思えますが、これからも精進していく所存です」

「期待していますよ。数年後、十数年後、数十年後の貴女たちが楽しみです」

 ヴィットーリアの両眼に悪戯っ子のような光が躍る。

「あら、一体、どれだけ長く生きるおつもりですか、モンシニョール?」

 気安げなからかいの言葉を聞いたロレンツォのそれにも、同じような光が閃く。

「それは、我が最愛の女性ひとが、わたしを迎えに来るまでだろうな、ヴィットーリア。だが、彼女は、ときに孤独を愛していたから、なかなか来てくれなさそうでね。わたしは暫く、この世に溢れる美しい芸術を楽しみながら、いずれ彼女にも紹介できるよう、造詣を深めるつもりだよ」

「でしたら、そのときは、あちらに既にいらっしゃる大勢の芸術家たちを、奥さまが紹介してくださるでしょうね」

 鞍木の発言を聞くと、ロレンツォは闊達に笑った。愉しげに、明るく、光に満たされた声で。

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