第3場 全地よ、天に向かいて歓呼の声を上げよ(1)

 その日の朝は、邸宅内も少し浮き足立っているように思われた。それは、結架の心が、ふわふわと舞い踊っているからかもしれなかったが、時折すれ違う使用人たちの雰囲気からも、常とは違う明るさを感じる。無表情でいるのが通常の者でも、唇の端に微笑みを浮かべ、瞳には期待めいたものが宿っているのだ。ただ、結架にとっては、それも当然のこと。この日の空気は甘く、陽光は明るく、小鳥の歌が響きわたる。

 朝食の席で挨拶を交わした邸宅の主人あるじ、ロレンツォの笑顔も、どこかこれまでよりも嬉しげに見えた。

 温暖な朝に冷たい桃のジュースが爽やかさを誘う。

 チーズとハムのオムレツはクリーミーで、毎朝口にしても絶品だと思うほどに美味だ。トマト・ステーキに生ハムとリコッタ・チーズを盛り付けたものも結架のお気に入りである。オリーブ・オイルとトリュフ塩でシンプルに味付けをしてあるところが、また良い。

 朝が一番明るい採光を望める食堂で、慌ただしさとは無縁の立場にある人物とともにする食事は、ひたすらに穏やかだ。この邸宅に住んでいるロレンツォの家族は仕事のために既に朝食を終えているという。彼らは朝が早い。地位が高いからといって、出勤時間が遅いわけではないようだ。夕食では会うことがあっても、朝食では会ったことがない。それは、部外者に聞かせられない会話があるからでもあるだろう。そう推測していた鞍木は、基本的に呼びに来られるまであてがわれた部屋から出ることもない。勿論、それは結架も似たようなものだった。とはいえ、書庫や楽器の置かれている部屋へは望めば案内されるし、外出を申し出れば送迎の提案まで受ける。手厚い待遇だ。

 食後のハーブティーのとき。

「ユイカ。空港までは一時間もかかりません。どうでしょう。今日はこれから我が家の保管している美術品の手入れと整理をするのですが、ご覧になりませんか? 日本の美術品もあるのですよ」

 ロレンツォの誘いは実に魅力的だ。結架も鞍木も、その提案の威力に平伏するしかない。喜んで受けた。鞍木などは、前夜から明らかにそわそわと落ち着かない結架の姿を見ていたので、気を紛らわすいい時間稼ぎになると安堵する思いだった。

 カヴァルリ家の所有する美術品は目録によると三、〇〇〇点を超える。当然ながら、その全てを一箇所に集めることは出来ない。別邸や本社社屋、専用の倉庫に収蔵しているものもあり、展覧会に出すか手入れするかの際に持ち出される。ロレンツォさえも全ての品を覚えているわけではなく、専任の管理人を置いているという。購入や売却、寄贈で流動しているので、目録自体が毎年新しくなる。その記録作業も管理人が行なっており、財務管理担当者と家令が監査しているとのことだ。

 美術品は飾られているもの以外、保管庫にある。そこに行ってみると、管理人は既に作業に入っているらしい。広い作業台のある隣室へ続く扉の前に立っていた。

「おはよう、ヴィットーリア」

 長めの髪を後頭部で纏めた女性が振り返る。マスクが顔半分を覆っているのに驚いた。

「ロレンツォ卿、おはようございます。あ、お入りになる前に、こちらのマスクを装着なさってください」

 白い不織布のマスクを差し出され、邸宅の主人あるじは小さく笑った。

「ああ、失礼したね。ありがとう」

 美術品の所有者に対してまでも厳しい。しかし、当人同士は、ごく普通のこととして認識しているらしく、気安い様子でマスクを受け渡している。

「お二人も、マスクをどうぞ」

 手渡され、礼を述べると、結架と鞍木もマスクを着けた。結架には少し大きいサイズだ。だが、着けないよりはいいだろう。

 絵画を次々と運び入れている作業員たちの邪魔にならないよう部屋の端に移動し、ロレンツォが二人をヴィットーリアに紹介すると、彼女は目を見開いた。

「まあ! 日本の方⁉︎ 日本の製品って最高よね! このマスクも日本製なのよ!」

 興奮気味に話しかけられて、結架は面食らったものの、かろうじて微笑んだ。

「──同郷の技術をお褒めいただいて、嬉しく思います」

「あら、真面目なご返事ね。さすが日本人!」

 まごつきながらの返事ではあったが、どうやらヴィットーリアは感心している。結架の心情が手に取るように分かった鞍木はマスクの内で苦笑した。

 ロレンツォが手短に二人の職と関係を説明する。特段に感銘を受ける様子もなく、淡々と相槌を打つ彼女の薄い反応は、この二日間で過度とも思われる丁重さで接せられた結架の緊張を綺麗に消し去った。要するにヴィットーリアが留意すべきは来訪者が美術作品に接近するにあたり必要な知識を備えているか否かであって、カヴァルリ邸に滞在している人間である以上、決して邪険に扱ってはならないということに変わりはない。作品への愛の深さからくる警戒心を表には出さず、その挙動に目を光らせればいい。作品が損なわれないように。

 ヴィットーリアが、にこやかな表情を保ったまま、先導した。

 貴重な骨董とも呼べる、芸術性の高い装飾をされた、使うよりも飾るべき燭台。宝石を惜しげもなく埋め込んだモザイク画。長い歴史を感じさせる大理石の彫像。絵画に至っては各時代の宗教画や一族の肖像画だけでなくヴェネツィア派、フィレンツェ派の優美な作品も多く、ネーデルラント黄金期の名作まで十数点も揃っている。誇らしげに次々と短めの解説とともに紹介していくヴィットーリアの流れるような音楽的な言語に、結架は聞き惚れた。専門性の高い内容は記憶に残らず流れ落ちてしまうが、それも承知の上であるだろう。知識不足からくる無理解を、ヴィットーリアは易しい説明を加えることで多少なりとも解消してくれた。

 ここにレーシェンとアンソニーがいたら、彼女と意気投合して熱っぽい会話がなされたかもしれない。

 そう思っていたところに、そのが視界に映った。

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