第5場 夏の夜の夢は束の間に(1)
──どうしてこうなったのだろう……。
ティーポットの中で茶葉が沈みきってしまうのも忘れて、集一は窓辺のテーブルで頭を腕の上に乗せて目を閉じている天使を見つめた。絶妙な曲線を描く長い睫毛が頬に影を落とし、口もとには愛らしい笑みが浮かんでいる。美しい。
腕の下にあるだろう楽譜が傷んでいないかと見てみたが、それは頭の横に
「結架」
飲みごろを越えつつある紅茶がたっぷりと入ったティーポットを載せたトレーをひとまずテーブルの端に置き、そっと肩を揺すって呼びかけてみる。返事はない。
お茶を淹れるため、お湯を貰いに厨房へと行ってきた僅か五分ほどの間に、こんなことになるとは。
甦るのは、
あの忍耐の夜が、さらに過酷な形で再来した。そう悟って、集一は脱力した。
そうして遠くを見つめて現実逃避していると、来訪者が入室を望む音がした。もはや期待はすまいと決意しつつ平時と同じ声量で応答し、歩いていって扉を開く。そこにいたのは予測したとおり鞍木だった。
「集一くん、さっきの日程の話なんだが……どうした?」
「どうぞ。ご覧になってください。そうしたら、お分かりになります」
そう言って体勢をずらした集一の向こうの景色を見た鞍木が唖然とする。
「えっ、寝てるのか? さっきのあの後で?」
「ええ」
「凄いな。まあ、恥じらいによる逃避かもしれないが」
「いえ、無防備にも限度がありますよ」
「仕方ないだろうな。この部屋は謂わば きみのテリトリー内なんだから」
快活な笑い声をあげる楽しげな鞍木に、集一は溜め息で応えた。
それは、ほんの数十分ほど前に遡る。
夕食の後にそれぞれ湯浴みをし、寝支度を整えたのだったが、明日の合わせの前に確認しておきたい部分を思い出した結架は、楽譜と鉛筆を手に、集一に与えられた客用寝室の扉を叩いた。彼が起きているのは判っていたので、結架に躊躇いはない。思わず小言が
「じゃあ、そろそろ
そう言うと、結架が首を傾けた。
「……もう少しだけ、傍に居ては駄目? リードを作っていたのでしょう。見ていたいの」
デスクの上の材料と工具を見て、無邪気な願いを告げる彼女は、まったくどこまでも無防備で。集一は、矢張り言うべきかと腹を括った。
純絹の真珠色をしたナイトガウンを羽織ってはいるものの。その下のスリーピングドレスは淡い桜色のコットンレースとモスリンの薄い素材で。白く輝く肌が透けそうだ。なんという扇情的な光景。そんな恰好で、そんな表情をして、至近までやって来られては、恋人を前にした健康な成人男性としての欲求を抑えることも隠すことも難しい。
「結架、あ……」
言葉を続けられず、集一は硬直する。
潤み、煌めく結架の瞳に直面して。
瞬間、熱望と
魅入られる。
黙りこんだ集一に結架が手を伸ばした。
浮かぶのは、信頼できる助言。
〝貴女から仕掛けてみても良いんじゃない?〟
──触れたい。触れてほしい。
その欲求が、かつてないほどに高まった。
この部屋にいるための理由など、なんでもいい。
双方ともに望めば、すぐにでも抱きしめられるなら。
──すこしも離れないように。
衝動的に、しかし確固とした意志をもって彼女は動く。
爽やかでありながらこのうえなく甘い香りに飛び込み。
指を絡めるようにして手を握って。
目で訴えるように三秒ほど見つめて。
伏し目がちに近づいて。
彼の耳元で小さくため息を吐いてから。
ゆっくりじっくり──。
堪りかねた彼を責められる者などいないだろう。そして、結架には拒む気持ちなどありはしない。柔らかで熱い彼の唇を味わいつつ、歓びが胸に舞う。
それから。
それから?
マルガリータは、なんと言っていただろう?
思考が鈍くなり、欲求のままに集一と唇を重ねる結架には、思い出せるほどの余裕がない。頭に
唇が離れる、ごく一瞬の間の呼吸は短い。
その瞬間に吸う空気が熱を運び、巡らせる。全身に、くまなく。
ほんの僅か。集一が身を引いて目を合わせてきた。何かを確かめるように。
──何を?
結架の想いは高々と燃えている。
見交わした視線が持っていた意味に結架が気づく前に。
集一の両腕が、結架を抱き上げた。
ふわりと運ばれ、厚みがあり柔らかな羽毛布団の上に横たえられる。と、同時に、深く口づけられた。優しさを感じるのに、どこか切迫感のある触れ方。頬を撫でる手が下りて、手のひらを捕まえられた。指と指が絡まる。もう一方の手で集一の肩から背を撫でようと触れるが、すぐにその手も捕まってしまった。きゅっと握る力が充分に手加減されているのが分かって、愛しさに震えてしまう。
しばらく二人とも、言葉のない会話に没頭していた。
頭の中が、ぼんやりとする。甘々しい痺れに縛られて。
息が上がって苦しいのに、それでも求めてしまう。
何も考えられない。
ただ、この人を独占していたいとだけ願った。
衣擦れの音さえも、もう意識にはない。
互いの体温に溺れて、口中に広がる甘露が溢れそうになるのを惜しむ。
涼やかで柔らかい
──そして、あとは本能の声にただ従えばいいのよ。
やがて集一が動きを変えた。
結架の唇に、手に、指に、首筋に、鎖骨に、幾度も幾度も口付けが降ってくる。恍惚感が高まり、幸福だけを感じる。堪らなくなって、何か、声ともつかない響きが咽喉から絞り出た。身体の奥から、迸るように。熱く、激しいほど。けれども抑制された。
集一の指が離れて、それを惜しむ気持ちを自覚するよりも前に。
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