第9場 新たな居場所への憧れ

 打ち上げは大いに盛り上がった。

 誰もが公演の大成功を確信しており、事実、来場していた著名な評論家も、楽屋まで来て賞賛と祝意の言葉を述べてくれたほど大いに満足していたようだ。

 閉館時間を過ぎた王立劇場のホワイエのバー設備を使ってビュッフェ形式の食事と飲み物が並べられ、劇場の職員や、財団と後援企業、協賛団体の代表者も含めて、飲んで喋って食べて歌って、ともに楽しみ、慰労し、称え合った。

 ワインやリキュールといった大小さまざまな瓶が並ぶ長卓の前には飲物係バールマンがいて、好みのアルコールから珈琲まで用意してくれる。真っ白な絹のテーブルクロスが掛けられた扇型の卓上に並べられた料理が減っていくと、バールマンが合図しているのか、空になる前に新しい料理が追加された。カルパッチョだけでも生の牛ヒレ肉、サーモン、鯛と複数あり、パスタも肉料理も、スープに至るまで、それぞれ数種類ある。ピエモンテ料理に限ってはいないようだが、北部パダーニア色の強い品揃えのようだ。用意した人間の好みと参加者の顔ぶれを考慮した結果なのだろう。集った人々は一人の例外もなく、満足げに舌と胃と目と耳を楽しませていた。

 そこにロレンツォ・デ・カヴァルリの姿はなかったが、ジャーコモは財団の長なので出席している。多忙な彼に会える機会も、そう頻繁にはない。集一と結架は、カヴァルリ邸での演奏会の件について、軽く話した。兄とは密に相談しているわけではないと言いつつ、彼の好みの曲や演奏スタイルについて語ったジャーコモの意見は非常に参考になった。

 そして、集一がバールマンに新しい飲み物を貰いに座を外した機に。結架はジャーコモに、欧州に拠点を構える考えはないのかと訊かれた。今すぐでなくとも、そう遠くない未来、いずれ。

 思い描いたことはある。もう、随分と前のことだけれど。だが、今となっては現実的ではない。少なくとも、すぐさま叶えるには準備が足りない。

 集一のように一年のうち大半を欧米を中心とした世界中で演奏活動し、欧州内に住居を確保しておくのは、国際的に活躍する演奏家には一般的なことだ。彼の場合は、日本のホテル王とも呼ばれる父親が経営する宿泊施設が世界各地に点在しているので、いざとなれば、そこを利用できる。本人は、出来る限り反目し合っている父に関わりあいたくないとしていたが、演奏活動のためならば使えるものは使うと割り切っていた。幸い理解のある叔父が必要とあらば支配人に直に通達してくれるため、空室を手配することは、そう難しいことではない。

 結架にとって魅力的な未来。

 集一との将来も考えると、欧州内に活動の本拠を置くことは望ましいと言える。もし、悲しくも彼と生涯を共に出来なくとも、自立した演奏活動を永続的に保とうと思うのであれば、日本国内だけの活動に狭めるのは得策とは言えない。そういった判断は彼女自身もつけていた。

 鞍木に目を向ける。彼は曖昧に微笑んだ。当然ながら彼も考えていなかったわけではない。だが、時期尚早だと言わざるを得ないのだ。少しずつ緩慢に、過剰なほどに慎重を期して進んでいくつもりであったから。

 結架は明確な返答を控えた。しかし、ジャーコモは彼女の意思を汲んだ上で、いつでも頼ってくれて構わないと告げて微笑んだ。財団は、そしてカヴァルリ家は、稀代の古楽演奏家である折橋 結架を保護援助するよう尽力することに吝かではない、と。

 なによりこれから海外の公演活動を増やしていってもらいたい。

 彼の言葉に、結架は勿論、鞍木も感動で心が震えた。

 財団の仕事としてだけでなく、個人的にも手を貸そうという申し出を受けられる芸術家は、そう多くないはずだ。いくらカヴァルリ家の資産が莫大であっても、無尽蔵なわけではない。手当たり次第に支援したとしても全員に充分な効果が見込めないのならば、それは無責任なだけだ。望ましい地位に就くまで見届けようとせず、中途半端に手を出すくらいなら、対象者の取捨選択は一定の厳しさを保ったほうが良い。コンクール入賞や試験突破、面接審査を経て漸く支援を得られる者ばかりであるので、結架は異例の存在と言えるだろう。

「ですが、ロレンツォの手を借りるのは注意が必要かと思います。彼は、貴女に演奏を再再お願いするでしょうから」

 北イタリア紳士とも言うべき澄んだ瞳に、茶目っ気が光った。

 結架は微かな声で笑う。

「それは演奏者にとって大変に嬉しいご要望ですわ」

 ジャーコモも、品よく笑みを零した。

「そうでしょうね。けれど、簡単に応じるべきではありませんよ。貴女の演奏を正当な対価なく消費しようとするのを許してはなりません。相手が誰であろうと、価値を正しく扱わぬ者に搾取されないよう。ミスター・クラキも、くれぐれも留意なさるように。相手が手に余るときは、財団と私の名を出して構いませんからね」

 柔らかな口調でありながら、内容は純乎として厳正であった。それが、結架の人品による無防備さを心配しての諫言であることは明白だったため、鞍木も有り難がることはあれ不快に思うことなどない。二人とも、礼儀正しく謝意を示して微笑んだ。

 その和やかな雰囲気に。

「ユイカぁあー!」

鳥渡ちょっとこらカルミレッリ! カヴァルリ卿がお話しなさってるでしょうが!」

 割り込んできたのは、楽団最年少のコントラバス奏者と、随一に面倒見の良いヴァイオリン奏者だった。

カヴァルリ卿シニョール・カヴァルリ! ぼく、もっともっと研鑽を積みます! だから、またユイカと皆と共演させてくださいっ!」

 近くに居た者たちは沈黙した。

 今回の共演メンバーは、それぞれ、本来の所属先がある。いくつかの管弦楽団から、古典音楽の守護聖人パトローネッサ・ディ・ムージカ・アンティカ財団との縁によって集められた。この演奏会のためだけに。よって、次回の共演予定はない。そもそもが、集一の音楽祭コンクール最優秀賞受賞の記念コンサートであり、これ一度きりの企画である。カルミレッリの願いは無茶なものだろう。が、しかし。

「……たしかに、二度とないものとするのは、惜しいですね」

「それは、そうですな」

「同感だ」

「ええ、まさしく」

 ロレンツェッティ、マインツ、パヴェーゼ、アッカルドの四人がワイングラスを片手に加わってきた。

「ユイカもシューイチも、これからまだまだ成長していくでしょうからね。勿論、我々もそうだが。数年後には、今回とはまた違った名演を望めるでしょう。賛助会員として請願するしかありませんが、ご一考願いたい」

 財団の理事会には演奏家も会員として名を連ねている。当然ながら議決権はない。しかし、発言権は認められているのだ。

 結架は想像のキャンバスに自身と皆の姿を映した。心躍る未来の情景として。それは、もう、決して実現不可能な果敢無い夢などではなかった。望んで手を伸ばし、足を踏み出せば、いつかきっと立てる舞台。並べる場所。響ける空間だった。力のある存在に目をかけてもらえる環境に慣れてきている証左。未来を疑うことなどなかった少女のころと同じ想い。

「迚も素敵で魅力的なお話ですわね。私も参加できるなら、嬉しく光栄に思います」

 声を弾ませて輝かんばかりの笑顔となった結架は、誰の目にもまばゆかった。生き生きと希望に満ち溢れて、陽光を浴びて艶やかに揺れる若葉のように瑞々しく。

「わたしはユイカとレーシェンと一緒にトリオソナタを演奏したいものだわ」

 マルガリータが、思わず洩らしてしまったとでもいうような沁々とした声でぼそりと呟くと、カルミレッリが反応する。

「それ、聴きたい!」

 両眼の光を強めて熱望を訴える姿が微笑ましい。

「そうですね。私も同じく思いますよ」

 ぱあっと華やいだ美貌の幼さを愛でるように、ジャーコモは微笑んだ。

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