第六幕

第1場 新たな友人から広がる人脈(1)

 ──どうしてこうなったのかしら?

 そう思いつつ、結架はハーブティーを口に運ぶ。蜂蜜を入れたローズピンクペタルのお茶は、香りも味も華やかに甘い。年齢を重ねて健康志向となっている邸宅の主人は、珈琲を控えているのだそうだ。

 オーボエ協奏曲の本番を終えた楽団が解散となり、集一がザルツブルクに行って二日後。ロレンツォ・デ・カヴァルリの招待に応じて彼の邸宅に滞在を始めた、その日の午後。

 結架は初老の男性を紹介された。

「こちらはクラウディオ・アンティゼリ。ミラーノで代々チェンバロを製作しているアンティゼリ工房の親方です。彼から楽器を購入するにあたり、是非、貴女の助言を聞かせて欲しいと思っています。勿論、報酬をご用意しますよ」

 同じハーブティーを前にした二人の視線が結架に向けられている。鞍木も同席しているものの、イタリア語が解せない彼は、完全に蚊帳の外だ。

 チェンバロ工房の親方だという男性は、穏やかな笑みを浮かべているものの、両眼は鋭く光っている。カップも家具も人間も、出来を見定めるかのような視線。妥協をいっさい拒絶している人間の目つきだ。身につけている衣服や時計などは飾り気がなく高級品でもないが、質は良い。美意識において隙のない人物のようで、白くなった頭髪も綺麗に撫でつけられ、髭も乱れなく整えられている。

「あの……こちらのお屋敷に迎えられるチェンバロを選ばれるのですか……?」

 ロレンツォは微笑みを崩さずに答えた。

「いえ、ここには既にチェンバロも五台ありますから。ああ、今回、貴女が使用する楽器は、またゆっくり選んでください。この後にでも。複数を選択なさっても構いませんがね」

「まあ……」

「購入するのは、古典音楽の守護聖人パトローネッサ・ディ・ムージカ・アンティカ財団が所有することになっているチェンバロです。とはいえ、王立劇場に無期限貸与すると決まっていますが」

 結架は戸惑う。

「それは、その……劇場の楽器管理責任者に……適任の方がいらっしゃるのでは?」

 そう言う結架の言葉は、恐らく正しい。しかし、ロレンツォは微笑みを保ったままでいた。

「ええ、仰るとおり担当者も呼んでいます。ただ、その者はチェンバロの専門知識は浅く、最低限しか備えていません。ですから、貴女に補佐していただければと」

 そう説明されると、結架には拒む理由などない。

「承知しましたわ。あの、報酬などの条件については、私のマネージャーと話してくださいませ」

「ええ、心得ていますよ」

 壁際に控えていた秘書らしい男性が近寄ってきて鞍木に英語で話しかける。これまでの会話の内容を聞いて驚いた彼が結架を凝視したので、頷いて見せた。ロレンツォの希望ならば、出来るだけ叶えたい。そういう気持ちを理解していた鞍木は、詳しい内容を話すために秘書とともに離れた席に移動していった。

「私はミラーノに同行しませんが、次男の妻で財団の事務員でもあるエリザベッタが随伴します。彼女は美術部門の責任者ではありますが、バロック音楽もこよなく愛する愛好家マニアでしてね。貴女の名を聞くなり、どうしても自分も同行して尽力したいと熱望したのです」

「それは迚も心強く、嬉しく思います」

 喜びに満ちた結架の言葉に、ロレンツォは笑みを深める。まるで大切な孫でも見ているかのような慈しみ深さをもって。

 そこで話題は変わって、結架は演奏会の思い出や感想を聞かされた。ロレンツォもだが、クラウディオも来場してくれたのだという。素晴らしい演奏だったと声を揃える二人に、はにかみながら結架は感謝の言葉で応えた。そして、カヴァルリ邸での演奏会にクラウディオも招いているのだと言ったロレンツォに、その日、初めて満面の笑みを浮かべたクラウディオが明るく言った。

「これほど貴重な演奏会に招かれては、最速で注文の品を仕上げねばなりませんな。ドンナ・ユイカが居られる間に試し弾きしていただけるよう」

「おやおや。貴女の信奉者は強欲者が多いですね。私も人のことは言えませんが」

「そうでしょう。私は、あなたよりは慎みを持っていますよ、レンツォ」

「そうかもしれませんね、ラウディオ」

 昵懇の間同士の気安い応酬と笑い声に挟まれて、結架はどう返していいのか困りつつ、喜びに心が満たされるのを感じていた。

 翌日。財団の音楽部門の担当者と劇場の楽器管理責任者とともに迎えに来たエリザベッタの運転する車で、結架は鞍木とアンティゼリ工房へと赴いた。工房の主人であり親方であるクラウディオ・アンティゼリは前日に帰っていたため、現地で彼女らの到着を待っている。

 高速道路を使って約二時間。

 アンティゼリ工房は、二階建ての大きな建物だという以外は普通の住宅と変わらぬ佇まいだった。一階部分は全てチェンバロ製作に関わる場所となっており、二階が住居として宛てられているという。

「お待ちしておりましたよ、ドンナ・ユイカ」

 作業服姿のクラウディオが微笑んで迎えてくれる。その横には、人懐こい猫のような緑の瞳をした女性が笑顔で立っていた。クラウディオが、

「彼女はマッダレーナ。孫娘でしてね。私の後継です」

 誇らしげに紹介すると。

「初めまして。お目にかかれて光栄です、ドンナ・ユイカ。マッダレーナ・アンティゼリです」

 丁寧な挨拶に結架は恐縮した。

donnaドンナ〟とは〝女性〟と訳する言葉ではあるが、英語でいう〝ladyレディ〟であり、貴婦人という意味も持つ。アンティゼリの祖父と孫娘は、結架をそうした地位の人間だとみなしている。貴族階級への尊崇が生きている欧州人が結架をそう見定めたのは本人には不思議なことだったが、その場にいる〝本物〟であるエリザベッタも、劇場の担当者たちも疑問に思わないらしく、平然としていた。

 結架とそう年齢の変わらないだろうマッダレーナが丁重に尋ねる。

「ドンナ・エリザベッタ。お疲れでいらっしゃいましょう。軽食など、ご用意しておりますから、先に少し休まれませんか?」

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