第1場 新たな友人から広がる人脈(2)
その提案に大らかな笑みを浮かべて、
「ご存知のように運転は私の趣味ですもの、疲れは感じていないわ。でも、そうね。せっかくだから、いただきましょうか」
エリザベッタが頷くと、一同は工房の主人に案内され、二階の応接室へ通される。素朴でありつつも精美な彫刻を施された木製のテーブルと革張りの柔らかなソファーに向き合って暫く談笑し、一息ついて場が和んだころ。エリザベッタがそろそろ仕事に入りましょうかと告げる。全員が頷いて立ち上がり、階下の工房へ降りていった。作業の音が聞こえてくる。
緑の深い公園に面した庭を見渡せる工房は広々としているはずなのだが、形を整えた木材や組み立て始めた楽器の土台といった大きなものから、工具に部品というような細かいものまで。整理はされているものの、数が多いので雑然と散らかっている印象を受ける。何処になにがあるのか、工房の職人たちなら探すことはないのだろうが。その物珍しい室内を、結架は興味深く見回した。初めてチェンバロに出会った店舗兼工房と雰囲気こそ似ているものの、あそこはもっとこぢんまりとしていた。規模が違う。工程の異なる楽器が並んで次の作業を待っているさまは壮観だ。
結架たちが入っていってもすぐには作業の手を止めなかった職人たちだったが、彼らが何度も送ってくる視線に込められた意味を親方が無視し続けるわけもない。やがて彼は職人たちに声をかけた。美しい女性に親切にするのは当然とばかりに満面の笑みで挨拶をする職人たちと短い会話を交わす。職人というと気難しい人種というイメージがあったのだが、
クラウディオ親方と彼の孫娘のマッダレーナ、それから職人のグイドの説明を聞きながら楽器の選定をしていく。
鍵盤の数と段数、ストップ装置。レジスター、カプラーといった鍵盤の連携装置。多ければいいというものではない。チェンバロはピアノと違い、奏者が調律や簡単なメンテナンスが出来なくては演奏に支障が出かねない。弦を弾く爪の厚みを削っての調整もする。劇場に貸与されるのならば、そうしたことは専任の者がこなすのかもしれないが、そもそも結架を助言者として楽器選定に雇ったくらいだ。あまり機能が多いと難しそうだ。だが、それを劇場の職員に尋ねると、彼らは首を横に振った。チェンバロの管理に必要な知識と技能を身につけるよう命じられているという。仕事が増えるというのに、何故か二人は嬉しそうに微笑った。
チェンバロの最も輝いているのが、一七世紀から一八世紀半ばの約一五〇年で、つまりはバロックの時代だ。だが、この楽器が生まれたのは一四世紀末。そして、一八世紀の後半になっても宮廷など貴族社会では愛好されていた。四〇〇年ほどの長い時間に生まれた曲は音域も和音も形式も多種多様で、当然ながら楽器の機能の進化に伴い変化している。国によっても素材や製法などの様式が違うため、レパートリーを広く持つ奏者は複数の楽器を所有したがるものだ。機能に優れた楽器を、まずは選ぶとはいえ。
結架は劇場の想定している企画で決定しているものを教えてもらい、演奏曲を思い浮かべて二台のチェンバロのどちらかに絞りこんだ。結局、対応できない曲目をプログラムに入れるのなら、別に楽器を用意することになる。奏者が楽器に拘る場合も有り得る。また、カヴァルリ家所有の五台のチェンバロが提供されることもあるだろう。それを昨夜までに確認していたので、結架はそれほど迷わなかった。そうして彼らとの相談の結果、楽器が決まると。
「貴女は、ご自分の楽器を、どこまで手入れなさるのですかな?」
クラウディオが朗らかな語調で、しかし明らかに好奇心を疼かせて尋ねてきた。青灰色の瞳が、若々しく輝いている。
「弦の張り替えや、爪の厚みを調整することと、フェルトの交換は致します。……兄に手伝ってもらうことばかりですが」
「おや、兄上ですか。彼はフルート奏者でしたね」
頬が引かれるような感覚。結架は笑顔をつくる。
鞍木はそれを見て眉を
「はい。ただ、ピアノとチェンバロだけしか学んでいない私と違って、兄はヴァイオリンなどの様々な楽器を扱うのです。その手入れなども、ひととおりは熟しておりますわ」
「ほう。それは、頼もしいですね。そう言えば、随分と昔でしたか、バッハの六つのトリオ・ソナタ全集の録音演奏は素晴らしく、心に響きました。論理的必然性の高いバッハを、彼は特別に深く理解なさっている。何より、音が美しい。ふくよかであり、まろやかであり、蜜のように甘く
「ありがとうございます」
「あの頃は、貴女はピアノを弾いておられましたな」
僅かに心が強張った。しかし、それを隠すのに苦しみは感じない。
「ええ。あのトリオ・ソナタは、私がピアノで録音をした最後の作品です」
「まだ、一〇歳くらいでいらしたのでは?」
「はい」
短い回答に、クラウディオが凄い、素晴らしい、驚異的だと興奮する。その激しさに戸惑っていると、エリザベッタがさりげなく割って入った。
「今度の我が家での演奏会で、チェンバロとオーボエで演奏してもらえるよう、お義父さまを通して依頼なさってはいかがです?」
にこやかな言葉に唆されて、クラウディオの頬が興奮で上気する。
「おお! そうだな。まだ二週間ある。是非、演奏曲目に入れて欲しい」
「検討いたしましょう。ね、ユイカ」
過度な負担を抱かせない巧みな思いやりに満ちた親しみを込めている呼びかけが、結架の泡立った気持ちを宥める。波と渦が荒れる前に静穏を取り戻したので、動揺は何事もなく収まった。
黙って成り行きを見守っていた鞍木は会話の内容が解らずに必死で焦りを打ち消していたが、結架の様子を見誤ることは決してない。どうやら大丈夫なようだ。もし助けが必要なら、彼女は鞍木に目を向けていただろう。だが、クラウディオとエリザベッタから視線を外さず、落ちついた態度を崩さなかったことから、深刻さは感じられなかった。困惑していたようだったが、鞍木は理由を尋ねるのは止めておこうと判断した。干渉しすぎないよう心がけると決めたのだ。彼女の自立を確かなものとするために。
それからはクラウディオから手入れの極意や工夫などの知識を伝授され、結架は嬉しげに、実演する彼や職人たちの鮮やかな技術に見惚れていた。
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