第8場 美しく快い音楽の響きは愉悦を誘う喜楽(1)

 広々としたホールの舞台の上に立つことが特別に感じられるのは、きっと、いつだって同じだろう。

 けれど、今日は、その記憶の中にある感覚と比べて、常とは明らかに違う。

 ずっと願ってきたことが、ついに叶うのだ。

 それは意識すればするほどに強い感情を頂点まで高めるが、それでいて、頭の半分ほどは醒めている。この演奏会を最初で最後としないために、浮かれて失敗するなど、あってはならない。後援者一族の恩恵により更なる共演予定が決まっているとはいえ、望まれてけた職責を果たし損ねれば、撤回キャンセルも絶対にないとはいえない。正式な契約はだ交わしていないのだから。その危機感が平常心をたもたせている。

 でなければ。

 きっと、ネクタイを忘れたり、暗譜した装飾音のパターンをどれにしたか思い出せなくなったり、リードを水に浸し過ぎたりしたに違いない。

 集一は内心で密かに自らに呆れ、わらった。

 人間の欲望は深くて果てが無いから。あまりに強く望んでしまえば、こいねがい求めることをめられない。幼少期からずっと、どれほど反対されても音楽を手離せなかったように。

 照明を浴びて煌々こうこうと輝く。楽器も、奏者も。

 その中でも彼女は矢張り殊更に眩ゆい。他の誰より、否、くらべられないほど。その奏でる響きの美しさも相まって。

 両肩へと広がる形の良い左右対称の鎖骨の中央に座したカメオが目に留まり、集一は頬が緩んだ。本繻子サテンのリボンも天鵞絨ベルベットのベルトも淑やかな雰囲気を醸し出している彼女に似合うのは勿論だが、繊細に編まれた豪華なレースが最も相応しい気がする。母にでも相談して、いくつかのパターンで出入でいりの宝飾店に製作を注文しようと考えながら、彼は舞台上に出て行った。

 全員が扇状に位置取って並んだ中央の、ややフェゼリーゴ寄りの場所。そこに向かいながら客席を見やる。チケットが完売したと聞いていた通り、見事に全ての席が埋まっている。国立音楽院で学んでいる苦学生のために、舞台裏への彼らの立ち入り、及びそこでの鑑賞を望むという学長からの要請があり、財団に許可が求められたほどだという。若手の身としては光栄の極みである。無論、それは承認され、彼らのために簡易な座席も用意された。

 期待という名の熱気に満ちた空間。

 落ち着いた赤の座席が扇形に並ぶ。ごく緩やかに傾斜した平土間の客席の底に舞台がある構造は歌劇オペラの鑑賞に適しているだろう。ボックス席は一層のみで、そのどこからも舞台上がよく見える造りだ。そして、天井から下がっているのは、満天の流星群が一斉に降り注いでくるかのようなシャンデリア。集一には、巨大な打ち上げ花火が開いて光が降ってくるさまのようにも見える。全体の形状はオーロラのようだと団員の数人は言っていた。確かに、そう言われると、そのようにも見える。美しくこまやかで、絢爛で、きらびやか。

 火災で焼失する前は、北イタリア最古にして最大規模の歌劇場だった。その栄光は何度も浮き沈みする。ミラノやヴェネツィアにも歌劇場が出来たことで存在としての価値は低下し、一八六一年に統一イタリア王国が誕生して“首都にある歌劇場”という評判を得たものの、首都がフィレンツェに移ったことで、それも四年もたなかった。さらに一九三六年の焼失である。焼け残った外壁部分のみを現在に残している以外は、一九六五年から行われた再建工事によってガラスとコンクリートを多用した近代的な美しい建築物となっている。座り心地の良い座席とホールの空間構造のために、音響の評価は最良とは言い難いが。

 そんな波乱に満ちた歴史の中で、数多くの名演奏会や有名な歌劇の初演を迎えた場所。集一は姿勢を正して、そこを進んでいく。拍手が鳴り響いている。先にスタンバイしていた仲間たちも、楽弓を振ったり掌底しょうていを叩いたりして迎えてくれる。落ち着いた足取りで進んで、聴衆の前に立った。

 様々な色をした、およそ二千対の瞳に見つめられているのが分かる。その全員が好意的な期待を抱いてくれているわけではないことは承知しているが、集一は怯まない。長い歴史じかんに磨滅しても消えなかったほどに素晴らしい音楽を、演奏家たちは魂をこめて現代の空間に生きさせる。その喜びを聴く奏者とともに、聴衆にも聴いてもらい、それを楽しんで欲しいからだ。ともにこの歓喜を分かち合いたい。芸術を、人間を、そして世界を賛美する振動を、心身の全てで感じられるよう、全力を尽くすから。

 フェゼリーゴの傍に歩み寄り、彼と握手する。この公演の成功を祈って。彼は自信に満ちて集一の手に信頼を伝えてくれた。彼と、そして皆と、微かに頷き合う。そうしてから客席に向かって佇み、聴衆に深々とお辞儀すると、ゆっくりと肩を上げた。それから集一は楽器を構え、ここ最近で一番の出来栄えであるリードを、内側に軽く巻き込んだ唇にそっと挟んだ。

 基準音Aを吹き鳴らす。

 その音に、完璧にフェゼリーゴの音が乗った。そこにマルガリータたちの音が加わる。続いてアンソニーたちヴィオラに、次にレーシェンとストックマイヤーのチェロに、さらにカルミレッリのコントラバスにと順番に基準音を渡す。その度に全員と調和した。

 最後に結架だ。

 チェンバロの儚く減衰する音が数回鳴った。やわらかな響きが混じり合う。重なった振動が耳に甘く届いて、も言われぬ快感が背に走る。途轍もなく快い一体感。

 舞台で行う音合わせは、儀式のような意味合いが強いという奏者もいる。しかし、やはり本番はリハーサルのときと音響環境が変わる。最終確認として、省くことは出来ない。

 フェゼリーゴと視線だけで頷きを交わして、集一は位置に立った。

 楽器の状態はリードも含めて完璧だ。

 一瞬の、緊張が漲った静寂の直後。

 華麗なヴァイオリンの旋律と、弦とチェンバロの通奏低音が整然と流れ出す。集一は凪いだ心のまま、オーボエを構えた。

 息を吸い込み。

 細い管の圧力に負けない強さで空気を吹き込む。

 ヴァイオリンから旋律を引き継ぐ吹き始め。優雅で典麗な主題。高潔な魂の歌。王侯貴族の集うサロンに相応しかろう、端正さ。ただ悠然と、穏やかに、清廉に。毅然としつつも雅やかで、厳粛でありながらも明るく華やかに。

 トマーゾ・ジョヴァンニ・アルビノーニ作曲、『五声の協奏曲集 作品九』より、第二番。オーボエ協奏曲ニ短調。第一楽章。allegro e non presto快速に、ただし急速ほどではなく。つまりは軽やかな優美さで。

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