第7場 舞台袖の薄闇に差し込む光

 照明が絞られた、満席の客席から次第に波が引くように喧騒が静まっていって、聴衆たちの熱気だけがホール内に立ち上っている。

 人々の気配、呼吸が感じとれるような静けさの合間に、囁き合う声や遠慮なく語りかける声が挟まって、彼らの興奮と期待を窺わせる。

 本番前の浮き立つ気持ちが、程よく張りつめた緊張感で引き留められる。そうでなければ、昂って声を上げてしまいそうだった。

 結架にとって、日本国外での演奏会自体が数少なく、それも独奏であるか兄の伴奏者であるかで、こうした中規模編成の経験は殆ど無い。

 ホール内の音響効果は通し稽古ゲネラルプローベで確認したが、客席が空の状態でのものだ。目安にはなるものの、結架には完璧な指針とはならない。夏と冬でも、気温や湿度の違いだけでなく、人々の服装によっても響きの質が変わる。ピアノでのリサイタルでは、本番の弾き始め数小節で、演奏を想定していたものから変化させることもあった。コンクールとは違い、その場で相応しい演奏の音楽を提供するべきだ。それは、曲の解釈や技術の上に成り立つ。作曲された当時の魅力を維持しつつ、今ここで奏でられる最上級を目指す。だから、演奏会は常に唯一無二のものとなるのだ。

 とはいえ、チェンバロはピアノと違い、奏法そのものを大きく変化させられる楽器ではない。それに、この演奏会での主役はあくまでオーボエだ。彼が美しく響くことを支える。それを意識し、結架は無自覚に微笑みを浮かべた。

 首元に指先をもっていく。そこにある名誉の重みへの歓喜に心が震えてしまう。素材が有する淡紅色と乳白色が巧く図案に利用されているうえに、優しい光沢の磨きが艶めいて美しい。それを首に固定しているチョーカーのリボンはシャンパンゴールドの本繻子サテンで、白銀の糸で刺繍が施されており、コンクシェルのカメオを引き立てている。上品で繊細な装飾がいかにも結架に似合うと言っていた集一の笑顔が思い起こされて、彼女の頬が紅く灯った。そんなことを言われてしまっては、嬉しさのあまり、足取りも軽くなってしまう。ふわふわと、舞い踊るような心地で。

「素敵なチョーカーネックレスね、ユイカ。とっても似合ってるわ」

 すぐ後ろから聞こえた声に、結架は振り返る。

「ありがとう」

「験担ぎの品は、そのカメオに決まったのかしら」

 何もかも見透かしているかのような言葉。しかし、結架は不思議に思わない。マルガリータには、いつも大抵のことは気づかれている。

「そうね。ペンダントトップとしてだけでなくブローチにも出来るよう針も付いているし、留め金を付けられる金具のが三箇所にあって普通のネックレスチェーンでも使えるし、チョーカーリボンも組み合わせを変えられるから、衣装ドレスの色やデザインに合わせられると思うわ」

「まあ。随分と気合の入った贈り物を選んだのね、シューイチってば」

「ええ、そうよね。実は気が引ける気持ちもあるのだけれど……」

 つい正直に言ってしまう。

 だが、マルガリータは軽やかに笑った。

「男性が宝飾品を女性に贈るということは愛情を示すだけでなく独占欲の顕示でもあるもの。価値あるものを選ぶのなら、それは彼にとって貴女がその品に見合う存在だということよ。あたう限り相応しいものをと考えたのでしょうから、その誠意に恥じないよう、堂々としていらっしゃい」

 いつも、マルガリータの言葉は結架に自信を与えてくれる。

 諫めながらも励まし、支え、援けとなる。

 結架は頷いた。

「ありがとう、そうするわ」

 そこで舞台監督ステージマネージャーの合図がきた。そろそろ開演だ。

 演奏会の始まりにおける楽団員たちの入場の形式は、国によっても文化の違いがある。

 アメリカなどは、開演前から舞台上で音合わせチューニングをする大型の楽器──ハープやティンパニ、コントラバスなど──の奏者が最初に入場して演奏準備をしたら、他の奏者は各々好きなタイミングで入場する。なんならチューニングだけでなく、曲をさらうこともする。勿論、そこはプロ演奏家であるので、あからさまにプログラムの曲を大きな音で奏でるような鼻持ちならないことはしないが。本番前の無意味な緊張を解す程度のものである。そして、そのまま舞台上で開演ベルを迎え、客席の照明が落ちてから登場するコンサートマスターと指揮者を待つ。

 欧州では全員が入場してコンサートマスターを待ち、コンサートマスターが単独で登場してから一礼してチューニングをし、今度は指揮者が出てくるのを待つというスタイルが多い。コンサートマスターの入場を待つ間、団員全員が立ったままでいる場合もある。

 オーケストラの規模・編成によっては、舞台の上手かみて下手しもての両方から入場や退場をするが、今回の演奏会では全員が揃って下手から出ていくことになっている。そのため、先頭はカルミレッリだ。彼の楽器はコントラバスであり大きいので、既に舞台上に設置してある。チェンバロも同様だ。

 コントラバス奏者の後にチェロ奏者、ヴィオラ奏者、ヴァイオリン奏者と続いて最後尾がチェンバロ奏者の結架。コンサートマスターの首席ヴァイオリン奏者であるフェゼリーゴは、少し後で登場することになっている。独奏者ソリストの集一は、さらに後だ。

「では、シューイチ。そして、皆さん。素敵な演奏を期待していますよ」

 ミレイチェの鼓舞する声が聞こえて。

 開演合図のブザーが鳴った。

 集一が微笑み、綺麗な所作で一礼する。

「それでは、皆さん。楽しい合奏のときを分かち合いましょう」

 仲間たちは笑顔で頷いた。

 これまでの時間は充分すぎるほどに満足できるものだった。その集大成。完全体への到達であり、帰結。聴衆とともに音楽で充たされる。

 胸が踊らないわけがない。

「いよいよね。楽しみましょう」

 マルガリータの横顔が勇んでいる。

 結架は明るく応えた。

「ええ、きっと、素晴らしい時間になるわ」

 どれほどの研鑽も習練も、この本番一回で得られる経験には敵わない。だからこそ、結架は、もっと演奏活動をしたいと思ったのだ。多くの演奏家たちと、様々な曲を、世界中の至るところで。両親の、そして叔母夫婦の健在時には、当たり前のように思い描いていた未来の展望。ようやく、それがいま、理想に近づく第一段階に進んで行ける。

 踏み出した一歩の先に、光り輝く舞台があった。

 進めていく先に待つチェンバロは、これまでの練習時間を共にしたパートナー。フェゼリーゴの楽弓の動きが見えるよう配置してある。

 照明が眩しく、熱い。夏の朝の陽光のように、じりじりと、けれど、どこか優しく、肌を照らす。その熱に興奮が高まる。胸に湧くのは、喜び。希望。そして、感謝。

 結架は幸福感の揺るぎなさに確信していた。

 この公演は大成功となる。

 予感でも推測でもない。

 それは、予知だった。

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