第4場 【無防備である】とは〝攻撃できない〟であると冷笑派の巨頭ビアス氏は編んだ(1)

 目を開けたときに感じたのは、何かがいつもと違っている気がするということと、それを如何どうでもよく思わせるほどに酷く重い頭の痛みだった。

 ぎゅっとシーツを握って紛らわそうと試みるが、あまり効果はない。がんがんと頭蓋骨の内側を殴られているようだ。小さく呻いて枕に顔を押しつける。心安らぐ薫りが鼻腔の奥に入ってきて慰めを感じるも、痛覚を消し去ることは叶わず、寧ろ覚醒が進むほどに激しさを増して、容赦なく苛んでくる。

「──結架」

 聞こえるわけがない人物の声に呼ばれて、一瞬、痛みから気が逸らされた。

 顔を上げて視線を動かす。

 扉の向こうから、電灯を点けて、集一が入ってくる。

「え……? しゅういち?」

 すぐにでも出かけられる服装をした集一が近づいてきて、身をかがめる。顔を覗きこまれたが、まだ現実感がない。しかし、頭の割れるような痛みは続いている。

「顔色は、そう悪くないかな。体調はどうだい?」

 柔らかな口調で訊かれて、結架は漸く事態をのみこむ。

「ごめんなさい……。私、昨夜ゆうべ、いつの間にか眠ってしまったのね……」

「倒れ込むようにしてね。熱は無いし、咳もしないし、呼吸も脈拍も普通みたいだけど、大丈夫?」

 心配げな顔を見て、結架は微笑もうとする。しかし、頭痛の酷さに失敗した。

 痛みに耐える結架の眉間の皺と瞳の潤みに気づいた集一は、彼女が身を起こさない理由を悟りつつあった。枕もとの椅子に座って、手を握る。

「無理しなくていい。ただ、状態を教えてくれないか。鞍木さんに報告するよう言われているんだ」

 落ちつきはらって静かな響きのその言葉に、自分がここにいることを鞍木が承知しているのだと気がついたものの、正直、それどころではない。

 頭全体が割れてはじけそうだ。

「あの……ちょっと……頭痛が酷い、みたい」

 たちまち集一は心配そうに眉をひそめた。

「痛むのは頭だけ?」

「ええ……」

可成かなり強い痛みみたいだね。ちょっと待ってて」

 立ち上がり、部屋を出ていく。

 結架は再び枕に顔を埋めた。呻き声をかき消すために。

 暫く耐えていると、

「結架。顔を上に向けられるかい?」

 集一が戻ってきた。そっと身をよじって言われたままに仰臥位あおむけになる。優しく前髪をどけられ、額に柔らかく冷たいものが乗せられた。氷水で冷やし、固く絞ったタオルだ。冷たすぎないように手の体温で調節してくれたらしく、ほどよい冷感が痛みを宥めてくれる。

「少しは楽になるかな」

「ええ……痛みが和らぐ感じ……ありがとう」

「それは良かった。じゃあ、鞍木さんに電話してくる。じっとしておいで」

「はい」

 逆らう元気など、あるはずもなく。

 結架は目を閉じた。タオルの感触に集中する。

 やがて戻ってきた集一が、ぬくみを吸い取ったタオルを、また氷水で冷やしてくれた。

「……もうすぐ鞍木さんが来るから。ミレイチェにも連絡してあるよ。だから、心配しなくていい。今日はしっかり休んで」

「でも……通し稽古ゲネプロが……」

 そう言うと、閉じていた瞼の上にもタオルを広げられた。さらに気持ちが落ち着く。そして、そこから仄かなミントの香りがするような気がした。ふわふわした肌触りの良いタオルはとても軽くて、優しい感触に安心感が高まる。癒されるだけでなく、保護されるかのように思えた。

 涼やかな集一の声が、静かに鼓膜に辿り着く。

「明日に延期してくれるよ、とりあえずはね。録音の予備日があるから、大丈夫。それより、様子を見て痛みが続くなら、病院に行かないと」

「そんな。きっと暫くすれば治まるわ。大丈夫よ」

 そう言う結架の声は、いつもよりも弱々しい響きだ。

 集一は意見を譲るつもりはないが、この状態の彼女と押し問答することは避けたかったので、その話題を打ち切った。

「なにか食べられそうなものはあるかい」

「そうね……」

 口ごもる。

「念のため七分粥でも作ろうか? 雑炊や煮麺にゅうめんも出来るけど」

 白い手が濡れタオルを瞼の上から持ち上げた。少し明瞭さを取り戻した瞳が集一を見上げる。

「煮麺が食べられるの?」

「うん。白だしは無いけど、醤油か味噌のものだったら、用意できる」

「それなら、お味噌でお願いしたいわ」

了解わかった

 もう一度、タオルを冷やしてから、額の上に戻す。結架の表情が安らいで、気持ちが上向いていっているように見える。人間の元気は睡眠と食事の質に左右されるのだ。美味しいものを食べれば、誰でも心に活気が生まれる。

「じゃあ、出来上がったら持ってくるよ」

「ありがとう」

 味噌ということは、温かい煮麺だろう。白だしや醤油なら冷やし煮麺にもよく合うが、仮に結架がそちらを望んでいたとしても、体調が思わしくないときは胃を冷やさないほうがいいと考えている集一は、温かいつゆにしただろう。

 炊事場キッチンに立ち、まずは花麩をぬるま湯に入れてふやかし、素麺を湯がくためのパスタ鍋と、つゆを作る出汁用の大きめな鍋とを火にかける。日本にいれば鰹節や煮干しから出汁を取るが、ここでは粉末の飛魚あご出汁を使った。うおは九州地方では飛魚あごと呼ばれ、少なくとも江戸時代の頃から食されていたという。干し飛魚や焼き飛魚の名が、現代の長崎県である肥前国ひぜんのくに、平戸藩主の側室の日記に登場するのだ。この出汁の上品な味は、海上を飛べるほどの強靭な体躯を持つ飛び魚が他の魚と比べて脂肪が少ないため、雑味も減るからこそ出るものなのだそうである。都美子に説明されたのをよく覚えている。

 出汁の鍋に人参と大根を麺に絡みやすいよう細く刻み、投入。沸騰したパスタ鍋のほうには素麺を入れ、少ししてから箸で解すように混ぜ、火を止めて蓋をする。鍋の根菜に火が通った頃合いに味噌を溶かした。味見をし、冷凍庫から色彩の強い法蓮草のような野菜であるスイスチャードを取り出す。冷凍する前に湯通しして刻んであるので、そのまま味噌のつゆに入れればいい。普段なら盛りつける直前に玉杓子を使って鍋で温めるが、今回は消化機能を労わるために柔らかく麺に絡むようになったほうがいいので、すぐに投入した。

 パスタ鍋の素麺をざるにあけ、氷水で洗い、ぬめりをよく落とす。こうしておけば、余ったぶんを冷蔵庫で保管しても、固まってしまわずに解れるようになる。

「……余らないかもしれないけど」

 小さく呟いた。

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