第4場 【無防備である】とは〝攻撃できない〟であると冷笑派の巨頭ビアス氏は編んだ(2)

 結架は、外見からは想像も出来ないほど、よく食べる。一般的な男性が食べる平均の量よりも多い。具合が悪いとはいえ、痛むのが頭だけであるのなら、食欲に影響は強く出ないこともありる。それを見越して、つゆも多めに作ったのだ。そう思いながら、水気をしっかり切った素麺を茹で上げざるに入れて鍋に浸し、つゆの中で温めてからどんぶりに盛ると、上からつゆを流し入れた。完成だ。

 盆に載せて運び、大声にならないよう気をつけながら寝室に声をかける。返事があったので入室した。結架は身を起こしていたが、こめかみに指先をあてている。それは額にタオルを押さえつけて落ちないようにしているのとともに、頭痛を解そうとする動作だった。

「食べられそうかい?」

「ええ……空腹感はあるわ……不快な感じはそのせいだと思うの」

 思わず集一は忍び笑いをこぼした。

 しかし、結架は気づかなかったのか、

「いい香り……」

 小さく呟いて、タオルを寝台脇のテーブルに置いた。その横に集一は盆を乗せる。グラスとピッチャーも隣に置いておこうとすると洗面器を置くスペースは残っていないので、彼は結架に少し待つよう頼んでから、それを壁際のチェストの上に移動させた。ついでに結架がテーブルに置いたタオルをそのなかに浸す。

 集一が戻ってくると、結架はまた、こめかみを指先で揉んでいた。そうしていると痛みが紛れるのだ。

 丼の横に置いておいた木目の綺麗な軽い汁椀を持ち上げて、集一が麺と根菜、スイスチャード、花麩を盛って匙ですくったつゆをかけてから渡すと、礼を言ってから、結架は「いただきます」と捧げ持ち、両手でゆっくりと椀を傾けて口をつけた。

「……美味しいわ」

「良かった」

 箸を差しだされ、そっと手に取り、椀を持つ左手の指で先を支えて持ち直す。いつもよりも緩慢ではあったが流れるような動きの自然な優美さを見て、集一は少しばかり安堵する。本当に、不調は頭痛のみであるらしい。

 時折、箸を止め、眉間に皺を寄せて目を閉じているのは、痛みに耐えているのだろう。だが、おかわりを勧めると、彼女は頷いた。

「お味噌の煮麺がイタリアここで食べられるなんて、なんだか不思議」

 ぺろりと平らげて丼を空にした結架に「まだあるけど」と言ってみる。ほんの僅か、逡巡のように見えた表情。

「……そうね。でも、ここでめておくわ」

「分かった。じゃあ、横になって休んでおくといい。片づけたら、また様子を見に来るから」

「ええ、ありがとう」

 口もとにだけ微笑を浮かべて、結架は布団の中に身をうずめた。そして、両目を閉じ、大きく深呼吸をして、

「──集一のにおいがするの、うれしい……」

 まったくの無意識で思ったことが口から零れてしまったように、無防備な響きで小さく呟いた。

 そっと音をたてないように部屋を出てシンクに食器を置いてから、集一は吐息を長く放つ。電灯を消してくることを忘れない程度には冷静さを保っていたものの、鼓動が早く、顔が熱いので、頬が紅潮しているかもしれない。

 心の中で呼びかけるように発された声に思えたので返事はしなかった。というより、なんと返せばいいのか分からない。

 ……鞍木さんの役割の意味するところが解ってきた。

 つい、声に出さずにひとつ。

 三秒で気持ちを切り換え、集一は電話のもとに向かった。

 鞍木が遅い。電話してみよう。

 そう思ったところで、電話機が鳴った。しかし、急いで近づいたところで、すぐに切れてしまう。おや、と思ったと同時に閃いた。

 窓を開けて通りを見下ろすと、鞍木と目が合う。エントランスホールの扉を開錠するスイッチは呼び鈴と連動していて、このままでは開けられない。多分、鞍木は、けたたましいと感じる呼び鈴の音が結架の頭痛に障ると思ったのだろう。集一は首肯して見せると、すぐに鍵を手にして玄関に向かった。扉を施錠してエントランスホールに降りていく。

「おはようございます」

「おはよう、遅くなって申し訳ない。ミレイチェさんからの質問が多くてね」

 結架のこととなると際限なく細かく心配するのは、彼も例外ではないらしい。集一は微かに苦笑しつつ、

「そうでしたか。結架は食事を摂ってくれましたよ。いまは横になってます」

「そうか、ありがとう」

「普段の彼女の朝食の量からすると少ないのかもしれませんが」

 歩きながら報告を進める。

 集一が玄関ドアの鍵を開けて扉を開くと、鞍木は声を上げた。

「えっ、さっきから真逆まさかと思って気になってたが、味噌汁の匂いだよな、これ」

 声をひそめていながらも、興奮を隠しきれていない。

「ええ。結架が、煮麺のかけつゆを味噌にしてほしいと言いまして」

 答えを聞いて、鞍木の両眼が光る。

「君は本当に意表を突く男だなぁ。イタリアで味噌の香りを嗅ぐとは思わなかったよ。それに、煮麺だって?」

「先日、母がこちらに来まして。渡されたものに、素麺そうめんも入っていたんですよ」

 集一が母に持ってきてほしいと頼んだのは、マルガリータとフェゼリーゴに返そうと思った飾り時計と、結架に渡したカメオの二つだけだったが、帰り際に都美子からも袋を渡された。母が頼んで、和食に使う食材を彼女に揃えてもらったという。息子が自炊をしていることを知っていて、気を利かせてくれたのだろう。例の騒ぎで、和食を食べたくなっても『ツバキ』に行くのは控えなければならなくなった。そこで、自炊の献立に和食を考えるだろうと思ったとのことだ。日本料理店の女将であれば、食材を仕入れるときに都合をつけられる。代金も母が都美子に支払い済みとのことで、集一は二人に感謝して受け取ったのだ。

 経緯を知ると、鞍木は小さく笑った。

成程なるほどな。入手ルートが最初から確保されてるようなものだ」

「そういうことですね。よかったら召し上がりますか?」

 そう訊いてみると、鞍木は嬉しげな表情になった。

「いいのか?」

「勿論です。結架の朝食の量が把握できていなくて、多めに作ってあるんです。僕は朝食は出来るだけ白米を心がけているので、そちらもご用意できますが」

「ありがたいな。どちらも魅力的だが……そうだな……煮麺を頼めるか?」

「分かりました。あ、それと」

 ポケットから紙片を取り出す。

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