第3場 妖精の女王マブが欲しがるものは(3)

「本番の験担ぎに、これをどうかと思って。演奏の邪魔にならないなら、使ってくれないか?」

 息をのんでしまう。

「でも、これ、かなり貴重な品ではないの?」

「さぁ。どうかな。祖母から僕が大切な女性に使ってもらうようにと引き継いだもので、母に管理してもらってたんだけど、あまり詳しいことは母も聞いていないらしくて」

 くらりとした。

「そんな大切な品を……」

「というわけで、僕がきみに必要としてもらえるあいだは、きみに持っていてもらおうと思っているんだけど」

「はい……!?」

 瞠目して声を上げた結架の亜麻色の髪をすくって、耳の上にかけてやりながら、身をかがめた集一が囁く。

「きっと似合うよ。きみを飾れる栄誉を、ずっと待っていた品なんだ。それとも、あまり好みではない?」

 涼やかな声が熱情を帯びていて、色気を増している。髪を耳にかけた集一の指のやわい感触に心が跳ねて、結架は頬を染めた。心臓の鼓動の音に負けない声を喉から絞る。

「そんな。とても、素敵だわ」

 夢を見ているような気持ちで告げると、集一は喜色満面、頷いた。

「じゃあ、ずっときみに持っていてもらえるように、努力するよ」

 思わず結架は立ち上がり、溢れて弾ける想いのままに、彼の胸に飛び込んだ。優しい、爽やかながらも甘いマグノリアの香りに包まれる。

 ──ああ、わたしは、このひとにふさわしくありたい。

 きゅっと抱きしめられ、そっと背中を宥めるように叩かれて、安堵感に全身が満たされていく。

 深い吐息が漏れ出た。

「私も。あなたに必要とされる者でありたいわ。これからも、ずっと。だから、絶対に、あなたを守るわ」

 甘やかな声に含まれた切実な願い。重い覚悟と敢然たる決意。その奥深くにある恐れまでは感じとれなくとも、集一には、聞き憶えのある言葉だ。その意味するところを今度こそ聞けるのだろうか。そう思った瞬間、結架の身体から力が抜けた。

「結架?」

 重みを増した身体を、しっかりと支える。

 呻くような苦しげな声がした。

「ごめんなさい……なんだか……目が、まわって」

「え!?」

 慌てて結架の顔を覗きこむ。先ほどに比べて血色は悪いものの、呼吸に異常はない。だが、目に生気がなく、朦朧とする意識を必死に保とうとしている表情に見えた。

 ──暗い未来を考えてしまったから?

 眠気を極限までこらえているときのような気持ちの悪さが襲いくる。ぐるぐるとしていた視界が徐々に翳ってきた。駄目だと思いつつも、どうにもならない。

 集一の腕に抱き上げられるのを感じたが、眩暈のような感覚に耐えかねた結架は両目を閉じた。もう何も考えられない。ふっと全ての感覚が消えた。

 弛緩した結架を急いで隣の寝室に連れて行く。ベッドに寝かせて、脈をとったり熱を測ったりしてみたが、矢張り異常は見られない。しかし、不安は拭えなかった。

 まず鞍木に連絡をする。それから、ミレイチェかジャーコモに医師の手配が出来ないか相談をすべきだろうか。

 足音を立てないよう、しかし急ぎ足で隣室に戻り、電話を手にした。ちょうど先ほど結架が壁のコルクボードに貼ってくれた電話番号を押して待つ。数コールで鞍木の声が聞こえた。

「ああ、鞍木さん! 急いでこちらに来てもらえますか」

「は? 集一くんか? え、なに、どうした?」

 面食らった声が尋ねてくるのも、もどかしい。

 集一は結架が倒れるようにして意識を失くしてしまったことを最低限の言い回しで説明した。

「すぐ行く。とりあえず、おれが着くまで、そのまま結架くんの様子を見ていてくれ。医師が必要かは、少し待とう」

 緊迫した声が、きっぱりと告げて、集一は多少なりとも落ち着いた。電話が切れると結架の元に戻る。

 照明を絞り、枕元に椅子を持ってきて座る。

 安らかな眠りに落ちているかのように、ゆったりとした呼吸であることを確認してから、羽毛布団を肩まで掛けた。それから、もう一度、手首で脈をとる。先ほどと変わらない。額と頬に触れてみる。普段の彼女の体温と同じに思える。するりと手のひらを滑らせて、首元に触れてみた。汗はかいていない。

 そのとき。

 結架が目を閉じたまま、笑みを浮かべた。

 それは幸せそうに。

 そして、身じろいで、集一の手を掴み、ぎゅっと抱き寄せた。

「……結架?」

 返事はない。

 しかし、この様子だと、ただ眠っているだけのようで、心配する必要はなさそうだ。

 緊張が全身から抜け出た。

 結架の長い睫が作る頬の影を眺めて、集一は深呼吸した。これはこれで、ちょっと落ち着かない。

 わざと強引に求めるふりをして、警戒心を思い出させようと考えていたが、その前に、完全に無防備な姿を見せられてしまった。

 ──やれやれ。妄信されているのか、それとも意識されていないのか。どちらにせよ、試練だな……。

 口の中で独語して、集一は身体を傾けた。額を敷布団の端に埋める。左腕は結架に捕まってしまっているので、それ以上は動けない。溜め息を布団の中に吐きだしてから、身を起こす。

 安心しきった子どものような表情で眠る結架の顔を見ていると、胸のなかに平安が広がっていく。これほど満ち足りた幸福感は、はじめてだった。ぬいぐるみを抱いて眠っている幼子ほどに、何の不安も恐怖も感じていないだろう。絶対的な信頼がなければ、こうはならない筈だ。

 飽きずに眺めていた集一の耳に、呼び鈴の音が聴こえた。実は期待したのだが、結架は目を覚まさない。仕方なく、腕を掴まれている結架の手の甲を擽ってみた。眉間に皺が寄ったので、そっと指を外す。それでも彼女は眠ったままだった。

 急いで来たらしい鞍木を招き入れる。

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