第3場 妖精の女王マブが欲しがるものは(2)

「いいえ、その逆ね。あなたに宜しく伝えてほしい、って仰ったわ。それと、これは鞍木さんの携帯電話の番号なのだけれど。あなたに、お伝えしておくべきかしら、って訊いたら、そうしてほしいって。ここに貼っておくわね」

 電話の上の壁にあるコルクボードにピンでメモを留める。

 集一が呟いた。

「これは、悪いことは出来ないね」

「悪いこと?」

 首を傾げた結架に、集一は口元に微笑を残したまま真剣な目を向ける。

「鞍木さんも、きみも、僕を信用してくれているのは本当に嬉しいことなんだけど。僕であろうと、誰であろうと、きみに油断してほしくないんだよ」

 結架が瞬きを早めた。

「私も鞍木さんも、油断するようなことは出来ないと思うのだけど……」

 困惑のにじむ声。

 集一は、言葉での説明は諦めた。まあ、帰る前に実際に体験をしてもらって、危機意識を取り戻してもらおう。そう心に決める。なにしろ、彼女はカルミレッリのあからさまな求愛にも気づかないほどなのだから。念を入れておいて悪いことは無い筈だった。

「うん、そうだね。ああ、このサラダ、運んでもらってもいいかい?」

「ええ」

 サラダボウルを渡すと、結架は嬉しげに表情を輝かせて食卓まで持って行った。それで、あっさりと会話の流れを変えてしまう。

「食事中に、僕は大抵、水を飲むんだけど、何か希望があれば、用意するよ」

 欠伸を両手のひらで覆っている結架が、

「明日は通し稽古ゲネプロだもの。私も、お水のほうがいいわ」

「そうか。そうだね」

 生真面目な答えに頷きを返す。これでアルコールを望まれていたら、お説教くらいしないといけなくなるところだ。あまりにも自衛の意識が足りないと。ただ、仕事を理由に挙げたのは無意識なのか意図的なのか。今後も注意が必要だ。

 続いて火の通し加減を考えながら、野菜を順番にフライパンでソテーしていく。

 結架が申し出た手伝いを丁重に辞退した集一が手際よく調理していくのを、彼女は驚いて見つめていた。そこで、食卓に運んでいく役目を任せ、カトラリーなども並べてもらうことにする。そのあいだに集一はスープをカップに注ぎ、メインを大皿に盛りつけ、オーブンで保温しているロゼッタとグリッシーニをパンかごに取り出した。

 卓上に料理が揃い、二人は向き合って座る。

 結架が手を合わせて「いただきます」と告げるのを見ただけで、既に集一は達成感を感じていた。その気持ちは、結架が食べ進めていくごとに、目を輝かせて「美味しい」を連発することで、さらに高まっていった。

「本当に、すごいわ。調理だって、私よりずっと手慣れていると思うの。それに、こんなに美味しいなんて!」

「必要に迫られてしているだけだけどね。でも、口に合ったみたいで嬉しいよ。きみは料理が好きそうだけど」

 そう言うと、彼女の表情には悩ましげな翳りが漂う。

「……私、包丁をあまり持たせてもらえなくて。以前は、それほどでもなかったこともあるのだけれど。だから、あなたほど早く上手に美味しく作るのは、まだ無理だと思うの。でも、上手うまく作れるようになりたいわ」

 穏やかな笑みを浮かべてはいるが、膝の上で結架は拳を握った。日本での生活に、そうした自由はない。帰国したら、戻るのは、そうした環境だ。

 ──いや。

 よぎった感情を遮るように、

「じゃあ、次は一緒に何か作ろうか」

 なんでもない、ごく自然に、あたりまえのことのように与えられた提案。おはようと言うほどに、おやすみと言われるほどに、意味を重ねつつも何の気負いも懸念もなく。

「……ええ、そうね。ぜひ、おねがいしたいわ」

 結架は涙を心に飲みこむ。

 優しい微笑の幸福を、また増えてしまった望みに纏わせて、彼女は立ち向かう勇気を養っていく。そうして自立の足場を作る。檻の中の安全よりも、広い外でこそ知ることのできる自分の能力や周囲の援けに価値を見出したいから。

 居心地の良すぎる空間に結架は安らぎ、さらに眠気を感じた。集一の傍は、どこよりも心が落ちつく。

「さて、じゃあ、送っていく前に、きみに渡すものを持ってくるよ」

 結架がぼんやりしているあいだに使った食器類を台所に下げ、新しく淹れた紅茶のカップを卓上に置いた集一は、そのまま軽い足どりで隣の部屋に行き、手に革の鞄を持って戻ってきた。黒い鞄は四角くて、頑丈な箱型だ。

 言葉もなく見守ると、留金を上げて開いた上蓋の中には、さらに装飾の美しい箱が綿にくるまれて入っていた。

 真鍮の猫足がついたエナメルの箱は、落ちついた色調のローズピンクで、黄金のレースリボンの縁取りに真珠や宝石らしい飾りが散りばめられている。細部に至るまで繊細な造りで、骨董品ではないかと思われた。

 感嘆の息を放ち、結架は集一の手の中で煌めくそれを見つめる。

「綺麗……」

「気に入った?」

「ええ、とても」

 すると、集一が楽しげに笑った。

「中のものも気に入ってもらえるといいけど」

「え?」

 宝石箱には鍵がついている。集一が、箱型の鞄の蓋の内側に貼りついている袋のなかから取り出した鍵で開錠した。そっと蓋を持ち上げる。

 黒い天鵞絨ベルベットの上にあったのは、カメオだった。その周囲を、二本のチョーカーネックレスのリボンが巡っている。

 左に振り向く馬の顔と向き合う若い女性と、その胸もとに薔薇が刻まれたカメオだ。縁取りは真鍮だろうか。小さな真珠や透明な石が周囲に並んでいる。

 箱の端には、右下と左下にひとつずつ、立体的な薔薇の形をしたイヤリングが咲いていた。

 カリブ・バハマ海沖で採れるコンクシェルは淡く優しいミルキー・ピンクの貝で、カメオとイヤリングは同じ色合いだ。すべて揃いで作られたことを感じる。

 カメオとイヤリングは、箱の中で動かないよう、それぞれぴったりと納まる大きさの窪みの中に入れられている。ということは、宝石箱も専用に作られているのだろう。

「集一……?」

 脇に立っている彼の誇らしげな表情と、慈しむような視線に、結架の胸が波うった。

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