第3場 妖精の女王マブが欲しがるものは(1)
陽が傾きかけたところで解散となったが、まだ騒ぎ足りないとばかりにごねるカルミレッリを、同じホテルに宿泊しているアンソニーとレーシェンが引きずっていった。二人は駄々っ子の扱いに慣れているらしい。抗議の声を上げながらも、少年は夫妻についていく。
結架は集一と並んで会場を後にした。ごく自然に、ふたりは指を絡めている。やわらかく、お互いの商売道具ともいえるそれを傷めないよう、そっと優しく。
ロビーに降りて二人きりになると、集一にこのあとの予定を訊かれた。とくに何もなかったので、結架は、そう答える。
「じゃあ、ちょっと渡したいものがあるから、寄りたいんだけど。その──僕の借りている部屋に」
稀有な音楽家の持つ感度の良い耳と生来からの繊細な感受性は、そう尋ねる集一の声に、僅かな緊張を聴き取る。けれど、そこに警戒を促させるような響きは、まったくなかった。
「いいかな?」
「ええ、勿論」
いっさいの戸惑いも不安もなく、また起こりうる事態を想定すらしていなさそうな無防備な即答に、集一としては、些かの動揺を自身のうちに見出してしまう。確かに初めて招くわけではない。だが、そのときは明確に仕事のためであり、事前に鞍木に通達もしていた。そこで、予防線を張ってみる。
「鞍木さんも呼ぼうか?」
「いいえ、必要ないわ。それとも、私では運べないほど重たいものをくださるつもりなの?」
笑みを含んだ明るい声で軽く
矢張り望まない肉体交渉を迫られるかもしれないだなんてことは想像の範囲にないらしい。マルガリータにも、あれほど煽られたというのに。集一の心から緊張は残らず消えた。そのかわりに別の危機感が芽吹く。夕闇が空を覆う前に彼女には念を押しておくべきだと決意してから、
「飛行機の手荷物サイズに収まるくらいだね。そう重くはないよ。きみより大切なものはないと思ってるけれど、出来れば、それなりに大切にしてもらえると、僕も嬉しい」
結架が楽しげに小さく笑った。
「まあ、なにかしら?」
安心しきっている、澄んだ瞳に満ちた信頼が眩しくて、集一は目を細めた。
本当に、あの七里結界とでも言いあらわすしかないほどのかつての態度と対応は、なんだったのだろうかと思える。いまの結架の様子は鞍木を必要としているように見えない。団員たちは当然に、ミレイチェをはじめとした演奏会の裏方の人間たちとも問題なく接している。英語も、現地語であるイタリア語さえも会話に不自由しない。ヴェネツィアではあるが同じ北イタリア地域に留学経験もある。日々を過ごすなかで不安を感じるようなことは無い筈だ。ただ、異性避けとしてのみ連れて来たのであれば兎も角。それもありうるものの、最初のころには同じ女性であるマルガリータをも、結架は出来るかぎり避けようとしていた。マルガリータだったから失敗しただけだ。そして、なし崩し的に──そこまで考えて──集一は苦笑とともに考えるのを止めた。
ヴェネツィア音楽院での想い出をジャーコモ・デ・カヴァルリに話したのは、コンクール優勝記念パーティーの夜だった。恩師の一人であるスカルパ教授の名を自分から口には出さない。彼は、集一にとって副科の師だった。師事した期間も短い。けれど、ジャーコモは古くからの知己である教授の最後の弟子にして〝音楽の天使〟と呼ばれていた天才の名を知っていた。そして、集一の熱望も理解してくれただけでなく、同じくしてくれたのだ。
メインの鶏肉と茸のクリーム煮と、オニオン・コンソメスープは、温めるだけ。ブロッコロ・ロマネスコとクリームチーズに
部屋に戻ってきて、それらの準備万端ぶりを見た結架は目を丸くした。これだけ見事に整えられていては、夕食の誘いを断る選択肢などない。彼女は集一の了承を得て電話の前に立つと、鞍木が持っている携帯電話の番号を入力した。事務所の社員が仕事でオーストリアに行く前に休日を取れたのは、本来、それを鞍木に渡すためにトリーノに寄ることが求められたかららしい。手作りチョコレートはついでだったのだろう。いつも結架が喜んで口にするので、気を遣ってくれたのだ。
鞍木に電話が繋がると、結架は状況を説明して、帰りは集一がホテルの部屋の前まで送ってくれることを言い添えた。とくに質問や注意をされることはなく、ただ、ホテルの部屋に戻ったら、無事の帰着を報告してから
集一くんに宜しく伝えてくれ、と言って、鞍木が電話を切ったので、結架は受話器を下ろす。
「すぐに帰ってくるように、って言われなかったかい?」
フライパンを温めながら和えたサラダを器に盛りつけている集一が、笑みを浮かべて訊いてくる。答えが分かっているだろうことは、その表情から伝わってくるのだが、彼はそれを隠すつもりがなさそうだった。
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