第2場 帰来を待ちわびていたことに気づく心(2):

 驚きに目を見開いて、マルガリータが息をのむ。勢いよく首を回してフェゼリーゴを見た。彼は、泣きだしそうな表情をしている。

 マルガリータとフェゼリーゴが、結婚祝いとして受け取るはずだった、飾り時計。フェゼリーゴの兄の手で、どことも知れぬ場所に売られてしまった品。一目見るなり気に入ったマルガリータが、その細部まで、完全に覚えているもので、世界にただ一つしかない。だから、見間違えることもない。本物だった。

「どうして?」

「幾人かの手を経て、日本の、シューイチの家に辿り着いていたようだ。君の話を聞いた彼が似ていると思って取り寄せてくれて、わたしに見せてくれた」

 今度は集一を見たマルガリータに、彼も微笑む。

「母が知人から贈られた品でね。僕の自由にして構わないと言ってもらっているから、心配は要らないよ。因みにフェゼリーゴは、これを譲ってほしいと望んでいるけれど、僕は条件を出したんだ」

「条件?」

「同じことを、もし君も望んだら、これはと思ってる」

「……どういうこと?」

 眉をひそめる彼女に、結架が鍵を手渡す。

「ユイカ?」

「ここだと、本音で話せないでしょう? 一部屋、借りてあるの。フェゼリーゴと話して、マルガリータ。ううん。フェゼリーゴの話を聞いてあげて。お願い」

 渋い顔をしているマルガリータの背を、そっとレーシェンが押した。

「応援が必要なら言ってちょうだい」

 矢張り状況を承知しているらしい親友の言葉にマルガリータは観念したらしく、大きく息を吐いて苦笑を浮かべる。

「ひとりで平気よ、レーシェン」

 そして、結架の手を軽く叩いた。

「可愛いにお膳立てされちゃね。行ってくるわ、ユイカ。気を利かせてくれて、ありがとう」

 フェゼリーゴに視線を投げかけ、彼女は歩きだす。その後を追うフェゼリーゴに、結架が無言で「頑張って」と伝えると、彼は僅かに微笑んで応えた。

 鍵の番号の部屋は、マルガリータの宿泊している部屋からほど近い。迷うことなく到着し、扉を開錠し、一瞬、彼女は唖然とした。広い。そして、ベッドはキングサイズだ。手配したのは集一か、レーシェンか。後で問い詰めようとマルガリータは決意しつつ、何も気にしていない素振りで窓際に近づいて、テーブルの上に鍵を乗せた。

「マルグリット」

 腕を組んだまま振り向くと、彼は少し離れた場所に佇んでいた。その瞳に浮かぶ光はとても切迫した真摯なもので、胸を抉るような哀しみをも感じさせる。

 何も期待するまいと考えていたマルガリータの胸の奥は震えた。だが、その期待の甘さに無防備に手をのばして、失うことを繰り返すなど、恐ろしくて出来ない。

「あのころのわたしは君を大切にしていたつもりでいた。だが、君から見れば、君を軽んじているように思えただろう。わたしは、あまりにも簡単に諦めてしまった。あの時計を失ったことを、君とともに嘆くことすら、しなかった。君の気持ちを想像することは出来たはずなのに。それを、とても悔いている」

 マルガリータの心は、自分でも不思議なほど凪いでいる。あの、どうにも止められなかった怒りが、決して消えたわけではないのに。

「……いまになって、ね」

「そう。いまになってだ。だが、わたしには君が必要だ。君が隣にいない人生に、もう耐えられそうにない。許してもらえるとは思っていない。だが、君と分かち合いたいと今でも願っている。人生の苦楽を。それを伝えたいと思ったことだけは、知っておいてもらいたい」

「許してもらえることを諦めるということ?」

「いや。これからも、いつか君が許してもいいと思えるまで、わたしは考えうる、すべてを実行するだろう」

 午後の明るい窓辺に立つマルガリータは、晴れわたる空を見上げながら、あの時計を思い浮かべた。

 白鳥の王子たちが舞い降りて、もとの姿に戻っていく。

 両手を広げて兄たちを迎える心強き姫。彼女は既に王妃であり、母だ。兄たちを助けるために、ひたすらシャツを縫いつづけていた彼女こそが、誰よりも変化した存在。

「……わたし、あなたにとってのわたしには、理解しようとするような価値がないのだと思ったわ。わたしが失ったのは、あの時計ではないの。怒りも悲しみも受けとめて、お互いの異なる感情をも尊重し合えると信じて疑わなかった、あなたを失ったのよ。それはね、リーゴ。許すとか、許さないとか、そういうことではなくて」

 振り返ったとき、彼の瞳に悲痛が見えて、マルガリータはそれを厭う自分の心に驚いた。

「あのとき、あなたが守りたかったのは、わたしの気持ちではなかった。そうなれなかった理由は、わたしの側にもあったのだわ、きっと」

「マルゴ」

「でもね」

 小さく自嘲する。

「ほんと言うとね、少し前まで、絶対に一生、許すもんかって思ってた。思い出すと、どうしても怒りに震えてしまったの。わたしを悲しませようと、傷つけようと、“仕方ない”で済ませてしまうなんてって」

「それは、ごく、あたりまえの怒りだ。それに、わたしは──君に──とても酷いことを言った」

「わたしにコンサート・ミストレスの任は無理だって言ったこと?」

「いまの君は違う」

 真剣な表情と声はあまりに堂々としていて、取り繕うような雰囲気は微塵もない。思わずマルガリータは嬉しげな笑みをこぼした。

「わたしが怒りを抑えられないくらい、あなたもわたしに我慢ならないと思ってるだろうって、そう思ってたわ」

「……そんな気持ちは、とうの昔に燃えつきてしまったよ。それからは、ただ、ずっと後悔してきた。あのときの自分の浅はかさを」

 マルガリータは、一歩、彼に近づいた。

「いまでも、わたしは自分が軽んじられることは嫌いよ」

「承知している」

 さらに近づく。

「煙草も嫌いなまま」

「わたしが、いまも禁煙を続けていることに気づいてなかったのか?」

 悪戯っ子の笑みを浮かべながら、さらに、もう一歩。

「眠たいときにヤラしいことをされると殺意を抱くのも、変わってないわ」

「それは、いまのわたしには共通していると思う」

 そして、立ち止まった。

「たぶんもう子どもは望めな──」

「マルゴ」

 フェゼリーゴの口調は断固として、じりなしの本心のみを言葉としていた。

「わたしが望んでいるのは、君との生活だ。夫婦としてともに生きることだ。それが叶えられたなら、子どもを迎えるかどうかは、その先に二人で相談すればいい」

 心が動くのが分かった。

 堰き止めていた感情が、もとの流路を取り戻す。

「リーゴ……」

「とにかく、わたしはこれから事あるごとに君に求愛することになるだろう。もし、どうしても、それが君にとって苦痛だというのなら」

 望まない譲歩の言葉を彼女は遮る。

「この部屋って、明日まで使えるのかしら」

 フェゼリーゴの面食らった顔を久しぶりに見て、マルガリータは華やかな笑みを浮かべた。

「え?」

「ユイカとシューイチに訊いてこない? もし宿泊できるなら、わたしとあなたで使っちゃいましょうよ。こんなに広いベッドだもの。勿体ないじゃない?」

 腕をのばしてフェゼリーゴの首に絡めると、彼はマルガリータの背中を引き寄せ、支えてくれた。その手の温かさを感じながら、彼女は額を彼の頬に当てる。そっと擦りつけて甘えれば、彼のほうから求めてくれた。煌めく瞳で一瞬見つめたフェゼリーゴの目は、かつてあった情熱に潤んでいる。そして、唇が触れ合った、その瞬間に、マルガリータの全身を、強い衝動と深い安らぎが同時に包んだ。懐かしい彼の体温と香り。その熱と昂ぶりと安堵を、もうずっと恋しく思ってきたのだと、ようやく彼女は正直に肯定した。

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