第五幕

第1場 魔の胎動と邪悪なる暗躍

 陽の傾いた薄暗い部屋の寝台の上は、昔から気鬱を深めさせる。

 ──おまえは、本当に……技巧すらも覚束おぼつかないのだな。

 父のヴァイオリンが奏でる完全無欠な『熊蜂の飛行』の速さについていけない、あの焦り。

 冷淡でありつつも侮蔑に煮える声。

 深い、深い絶望。

 ──ここに生まれたのも間違いだ。

 息が出来ない。

 音が、消える。

 闇に心も魂も絡め捕られて、指一本も動かせない。

 ──澱む。

「……ごめんなさい」

「出ていけ」

 悲痛な女の声を遮るようにして言葉を投げつけたが、気配は動かない。

「まさか、こんな事態に発展するなんて、思わなかったの。思い知らせようとしただけなのに」

 無言を返す。

「ただ、何に従うべきなのか、自覚を持ってもらいたかったのよ。何を最優先させるべきなのかを」

 ──どうせ、嘘だ。

「ごめんなさい。あなたを苦しめるなんて、思わなかった」

 ──この状況を喜んでいる癖に。

「……ねえ、こっちを見て」

 ──うるさい。

「ねえ、お願い」

 かっとなり、手近な枕元の電灯を片手で持ち上げたと同時に振りかぶって投げつけた。電球も、陶器の台座も、女の真横の壁にぶつかって、砕け散る。悲鳴が上がった。破片を浴びただろうが、なんの感情も浮かばない。清々しくすら思わない。

「出ていけ」

 同じ言葉を繰り返す。

 震える女は、足元に転がった布張りのランプシェードに気づかず、踏み抜いて足を取られたが、なんとか身を立て直して部屋を横ぎり、扉を開けた。

「ごめんなさい」

 最後に一言、空虚な謝罪を残して消える。

 そのまま暫く、じっと身を潜めるように、動かずにいた。

 陽が落ちていって、暗がりに震える夜が来る。

 その静寂しじまが常に想起させる凍てついた孤絶感が押し寄せてきて、耐えられないほどに心が乱れ、部屋中の残った電灯を片端から点けた。天井の、壁の、机の照明だけでは満足できず、窓辺のアロマランプさえも点灯する。

 ヴェネツィアン・グラス特有のレースガラスが見事なランプシェードは、内部の電球の光を浴びて華やかな色を放つ。その色彩は鮮烈である。しかし、あの業火を思わせる紅さは、知らずして、男の罪を問うてくる。電源を切り、さらにコンセントを抜いた。だというのに、否、それなればこそ、そのぶん暗がりが増えたような不安が襲いくる。

「ああ……! 足りない、光が! 光が足りない!」

 蛍光灯、白熱灯、豆電球、蝋燭。

 何を使っても、どこからか、影が襲ってくる気がする。

 。それでも追い縋ってくる。否定と嘲りを代わる代わる、高潮もこれほど無慈悲ではないと感じさせるほどに絶え間なく。

 四方しほうから照明を使っていても、毛布にくるまって目を閉じて、そのせいで暗いのだと念じても、この恐慌は止まない。

 ──光が居ないから……!

 細く開いた扉から見られていることも、気づく余裕はない。

 女は中を窺い、薄い唇を噛んだ。

 一矢報いたいと念じる切れ長の眼に前髪がかかる。それでも瞳は燃えて、その黒髪の隙間から憎悪が溢れ出る。

 女は頭の中で計画を練った。

 この怒り、復讐心、嫉妬。

 ──天罰は贈り物として与えよう。

 胸のうちでは激情が火柱を上げる。

 しかし、頭脳は氷のように冷えていた。

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