第9場 愛を助言する寓意的な朝の対話(4)

「……叔母が……昔、留学前に、医学辞典と、〝アサーニュ〟指南書と、アナトール・デュボワの手記の一部を読ませてくれたの」

「は? 貴女、それ一〇歳くらいのときじゃない? 読まされたの? 本当に?」

 違う意味で目を剝いた。

 医学辞典はともかく、アサーニュの指南書とは騎士と貴婦人が宮廷文化の書物で、アナトール・デュボワの手記はルイ一五世の時代の宮廷人だったという正体不明の人物が王侯貴族の乱れた性愛を書いたものだ。どちらも史実としてどこまで正確な内容かは不明であるものの、非常に際どい内容である。そして、あまり世間に知られておらず、珍書と言っていい。日本人の、幼女から少女になりつつある年齢の子どもが読むようなものとは思えない。ただ、読まされたのが一部分であるなら、叔母が害とはならなさそうな箇所を抜粋したのだろう。念のため内容を訊くと、交接器とは何かだけでなく、性的興奮を促す効果を期待されるために他人に見せたり触れさせたりすべきでない身体の部位についてや、生殖の仕組み、性交渉が持つ意味、欲望の餌食にされないために必要な注意、といった生真面目なもので、肝心の欲望や快楽の詳細は抜け落ちていた。

「……つまり、こういうのは避けなきゃ駄目よ、こんな意味があるんだから──っていうことを、叔母さまはユイカに伝えたかったわけね」

 切実な理由の性教育だった。

 だからこそ、その具体的な性行為の技術については語られていない。いかに快楽を分かち合うかではなく、いかに快楽の犠牲となることを防ぐかを目的としていたのだから。

 幼くして美貌を備えると、力も知識もないのをいいことに、蹂躙される危険が増す。結架の叔母は遠い国に離れるにあたり、危機意識と警戒心を持たせることと、助けを求める相手の見極めを正しくするよう、教えたようだ。ただ相手を無条件に疑ってはならないということもしっかりと伝えたようで、そちらの教えのほうが結架の身に強く根を張っている。その無防備の理由として、過保護があるのかもしれない。

「……まあ、知っておくべき最低限は既にあるみたいだし、性的接触の嗜好については人それぞれで相性もあることだし、結局のところ実践と対話に勝るものはないと思うわよ。貴女から仕掛けてみてもいいんじゃない?」

「仕掛けるって?」

「指を絡めるようにして手を握って、目で訴えるように三秒ほど見つめて、伏し目がちに近づいて彼の耳元で小さくため息をいてから、ゆっくりじっくりフレンチ・キスをしておやりなさい」

 〝困り泣き顔〟というものがあるなら、こういう表情だと説明できるような顔をした結架が、少し震える声で問うてくる。

「……それって、その、一般的なものなの? あの……さっきフレンチ・キスは口淫オーラル・セックスだと言っていたでしょう」

 マルガリータは、学会で次の教授になれるかどうかをかけた論文の発表をする大学の助教授のように重々しく、「古代からの人間の一般的な愛情表現でしょうね。口淫も、手淫も」断言した。

 未知の知識に触れて慄く結架の表情は可愛そうなほどであるが、マルガリータは気も手も緩めない。

「ああ、手淫はアサーニュに出てくる筈だけど、解る? 詳しく説明しましょうか?」

 結架は、悲鳴を飲みこんだらしかった。

 マルガリータのことだから、きっと、分かりやすい言葉を使う。直截的であっても、恥ずかしげもなく。そう思ったのだろう。

「それって、その、男性器や女性器を優しく刺激して、交合意欲を高める触れ合いのことでしょう。あの、女性が男性を受け入れるときに、摩擦の痛みをなくすためとか」

 口ごもりながらも早口で告げたのは、羞ずかしさが勝つからだろう。ただ、早くこの会話を終わらせたいのかもしれないが。

「理論的にはね。風邪をひいて乾いた鼻の穴に、そのまま指を入れたら、痛そうだものね。でも、それだけじゃないわよ。身体を触れ合わせて気持ちを通わせることが、愛情と信頼の確認と積み上げでもあるの。相手の嫌がることをしないのは当然で、快く感じて興奮してもらうには、どこをどう触れると効果的なのか、そういったことを探るのも奉仕であり、それこそ愛を捧げる行為なのよ」

 想像したのか、結架の顔は湯気が出るのではないかというほどに紅潮していく。しかし、マルガリータは生真面目な表情で続けた。

「男女の交流なんてものはね、ユイカ。身体も心も、互いの波を尊重してこそなのよ。主導権を片方だけが握るのでは、駄目。貴女も悦びを求めていいし、与えることを惜しまないで。貴女が望んでいることや望まないことを伝えて、彼が望んでいることと望まないことを等しく熱意を持って知ろうとするの。女性がすべきことは何かではなく、貴女がしたいことは何かを知るべきよ。それをシューイチが悦ぶか、遠慮したがるか、それは貴女が注意深く観察して、解らなければ本人に訊けばいいわ」

 ──そして、あとは本能の声にただ従えばいいのよ。

 性愛の女神アフロディテのように自信満々に、ごく当たり前で簡単な事実だとでも言いたげな口調で告げられた言葉に、結架ははにかみながらも頷いた。ただ、その内容の重さを理解したのは、もっとずっと後のこと。身を以って愛欲の波にのまれて初めて、その意味の尊さを思い知ることになる。

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