第9場 愛を助言する寓意的な朝の対話(3)

「……ユイカ。貴女、シューイチの傍にいて、劣情を抱くことはある?」

 彼女はせた。

「あら、大変」

 両手で顔の下半分を覆って咳込む苦しげな結架の背を撫でてやる。

 手巾ハンカチで口元を拭い、それからカップに残っていた紅茶を飲み干して呼吸を整えると、結架は涙目でマルガリータを見つめた。そこに非難はない。しかし、彼女は混乱しているようだった。

「それは、あの、肉欲というか、動物的な感情のこと?」

 何を言うのだろう、と、マルガリータは思った。

「きわめて人間的な感情よ。触れたい、触れてほしい。自分だけに目を向けて、全身全霊を自分のことで満たしてほしい。そして、ひとつの存在になりたいと望むこと」

「……それが、あなたの言う劣情なの?」

 難題を前にした学生みたいだった。

「独りよがりで、自分の欲望に忠実だからよ。相愛であったとしてもね。相手の総てを自分の一部にしたいということと同じだから。自分の総てを相手の総てにしたいということでもあるわね。だから、性交渉を卑しむような言葉が存在するのだと、わたしは思うわ。ただ、その肉体的快楽だけを愉しむ場合は、その限りではないけれど」

 午前のティールームで話すには適さないものだったが、一番近くの席は空席のままだし、イタリア人には紅茶を飲みながらでも激論に熱くなる者が多い。店内に残った数人の客たちは互いの会話にのみ熱心で、誰も彼女たちの話に耳をそばだてているようには見えなかった。それに、こういう話題は、親しい者が傍にいないときこそ、しやすいものだ。

 結架は持ち前の素直さで、マルガリータの発言を考えている。

「触れたい、触れてほしい、とは、思うわ」

 静かな口調。

 みどりを帯びた明るい茶色の瞳は、いつものように澄みきっていて清雅であるのに、その潤みには愛慾あいよくが満ちている。その果てなさに苦悩している。

 ひとりの人間を独占したいと望むほどの執着心が彼女を燃え立たせることが、この先あるのだろうか。あの、すべてが閃光にかれて蒸発するのではないかというほどの、激しい感情。どれだけ深く繋がっても、果てたあとにも襲いくる焦燥。それを思い出させるものは、何もかも厭う。その張本人の言行さえ。心を縛る頑強な鎖は、この世の何より甘やかであるのに、ひどく締めつけて苦しみをも強いてくるのだ。

 離れる時間の寂寥があることで、満足していることを知る。傍にいることが必要だと自覚する。ひとは愛する者の居る場所に帰るものだから。そして、その場所を奪われまいとする。

「でも……そうね。私、私だけに許してほしいものを集一に求めていると思うわ」

 例えば心の奥深くを打ち明けること。

 将来を分かち合う計画を立てること。

 秘め事について語ること。

 そして、心とともに身体を捧げ合うこと。

 そういうことは、他のひとと、共有したくはない。

 ──自分だけに許されている、自分だけが特別なのだと思うのが幸福に感じられる。

 集一がその言葉を口にしたとき、結架は、“そういうものか”としか思わなかった。どこか自分には隔たりのある、一般論のようにしか理解していなかった。

 けれど、いま、あけすけに発言するマルガリータの率直な意見を聞いていて、抵抗感を持つどころか共感していることに気づく。

 ──ああ、私は集一を特別に思っている。だから、彼にも私を特別だとしてほしい。

 双方が相愛だと考えていたとしても独りよがりの欲望。

 まさしくマルガリータの言うとおりだった。

 好きとは欲すること。愛するとは与えること。そういう有名な言葉がある。けれど、性愛は、それを同時に持つことなのかもしれない。捧げつつも、奪う。自身の肉体で、相手の魂をも縛る。

「そういえば、確認したいのだけど」

 まっすぐ覗きこむように目を合わせられて、その真剣さに、結架はティーポットに伸ばした手を離し、聴く態勢をとる。

「貴女たち、もう、経験したのかしら。イギリス人の言う“フランス式キス”を」

 結架が怪訝そうな顔をした。

「キスに国民性の違いがあるの?」

 その言葉と態度に、マルガリータは迂遠な表現を放棄することにした。

「そうじゃないわ。イギリスと我が国は歴史上、対立けんかすることが多いでしょ。それで、紳士淑女の慎み深さを誇りとしているイギリス人が揶揄したのよ。フランス人の情熱に満ちたキスは下品で卑しいオーラル・セックスで、そんなのはフレンチ・キスとでも呼べばいいって」

 その説明に結架の困惑の表情はさらに色濃くなる。

 恐らく理解していないなと感じたマルガリータは、更に説明を加えた。流石に身を寄せて、落とした声で耳元に囁く。

「唇を合わせるだけではなくて、舌を絡ませあったり、軽く吸ったり、互いに相手の口腔内を舐め上げるような動きをする濃厚なキスのことよ」

 結架は絶句した。

 何食わぬ顔をして姿勢を戻したマルガリータは、残り少ない紅茶を飲み、頼りなげで幼い知識しか持っていないらしい少女のような女性が落ちつきを取り戻すまで待った。そして、明確な回答を聞くことは諦める。どちらにしろ、キス程度のことで もじもじしてはいられないのだから。

性交渉セックスは分かるわよね?」

 こくこくと頷いた。

 しかし、どうも怪しい気がする。

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