第9場 愛を助言する寓意的な朝の対話(2)
カルミレッリたちが弦楽五重奏の仕事で不在にしていたあいだ、結架が集一のオーボエとピアノで二重奏をするのを見学したときもある。あのときの彼女は、とても幸せそうにピアノに触れていた。マルガリータの目から見ても。
思わず微かに笑いを漏らしてしまう。それを耳ざとく聴き取った結架が、苦笑を浮かべる。
「なあに、マルガリータ。なんだか嬉しそう」
ティーポットにある二杯目をティーカップに注ぎながら、彼女は結架に破顔一笑した。
「ええ、嬉しいわ。貴女が毎日、楽しそうで。ときどき、はっきり意見も言うようになったでしょ。通奏低音の動きかたでも、シューイチの選んだ装飾音によっては、フェゼリーゴよりも貴女の判断のほうが適確なことがあるわ。前は黙って従うだけだったもの。貴女の成長が著しいことを誇らしく思ってるわ」
白い頬が紅潮した。羞ずかしげに、
「ありがとう」
はにかみながら言う姿は、変わらない、いじらしさだ。
「それで、どうしたの、ユイカ」
「え?」
「なにか聞いてほしいことがあるんでしょう? それで、ここに来たのじゃない? 話したい相手に わたしを思い浮かべてくれたのなら、光栄だわ」
数秒間、結架は黙ってマルガリータの緑の瞳を見つめた。透明度の高い、エメラルドを思わせる瞳に、ときどき吸いこまれそうな気持ちになる。
ティーカップをソーサーに下ろし、結架が目を伏せる。
隣の席の若い男女が立ちあがって店の外に出ていくまで、彼女は躊躇うように指を擦りながら黙っていたが、紅茶が冷めてしまう前に話しだした。
「……私には、兄しか身近なひとがいないの。鞍木さんもそう。つまり、男性でしょう。家のことを任せているひとはいるけれど、個人的な相談を聞いてもらったことはないわ。だから、その、あまり、こう、具体的な知識がなくて」
みるみるうちに頬の血色が濃くなっていく。
もうそろそろ店内が閑散としてくる時間だ。仕事や学業に向かって行く人々が、席を立っていく。
マルガリータは周囲の気配を、きちんと読んでいた。
「男女の閨の営みのこと?」
がちゃんと大きな音がした。ティーカップに触れようとした結架の手が、びくりとした拍子に、それを動かしたのだろう。彼女は静かに慌てふためいているが、マルガリータは表情を真剣なものにする。そして、敢えて視線を別の場所に向けた。
「そうねぇ。シューイチって、その手の経験は、どのくらいあるのかしら。彼が
視界の端で結架がぎゅっと両目を
「下手に耳年増になってもね……シューイチは嬉しがるタイプに思えない……寧ろ恨まれそうで厭だわ。万が一、彼よりもユイカの知識を多くしてしまったら、きっと最悪なことになるわね。わたし、報復されそう」
「まさか」
流石に異議を挟んできた結架の顔を見る。ゆでたオマール海老の如く耳まで派手に真っ赤に染まっていて、可愛らしく、面白い。
噴き出しかけるのを咳払いで誤魔化しつつ、マルガリータは平静さを取り戻すために紅茶を口に含んだ。
「私、これまで、こんなにいろいろ打ちあけて、話してくれる同性の親しい人って、なかなか ご縁がなくて」
集一の性愛知識の深さについてという話題を微妙に逸らしつつ、結架が言葉を続ける。
「恋愛経験がないのもそうなのだけど、恋愛談義の経験もなくて、だから、その、男性が愛する女性に望むこととか、女性が愛する男性に何をすべきなのか、ちゃんと解っていないと思うの」
──えっ、そこから? というか、なんていうかもう、
目を見開いた直後に、マルガリータは内心でふらついた。
結架が純真無垢なのは解っていた。免疫が低いと断じたのは、他ならぬマルガリータ自身だ。しかし、いざ目の当たりにすると、眩暈がしてくる。
「……あのね、ユイカ。貴女は恋愛小説とかドラマとか映画とか、どんなものを知っているの?」
まずは彼女の知識がどれほどのものかを把握するべきだ。
そう決めて、問いかける。
結架は思い出しつつ答えた。
「ええと、『オルフェオ』、『ジュスティーノ』、『ロメーオとジューリエッタ』、『トリスタンとイゾルデ』、『椿姫』、『カルメン』、『トスカ』、『アイーダ』、『リナルド』、『蝶々夫人』、『フィガロの結婚』、『ドン・ジョヴァンニ』、『夏の夜の夢』、それから──」
「見事に全部オペラじゃないの、ユイカ」
一生懸命に並べる結架はまだリストが残っているというような顔でいたが、マルガリータは手を振って、
「もう充分に解ったわよ。貴女、
結架は明らかに むっとしたようで、
「まだ言っていないものがあるわ。これは戯曲よ。観たことはないけれど、映画にもなっている作品」
「一応、聞かせて」
「『ウィンダミア卿夫人の扇』」
マルガリータは意外なものを聞かされたという驚きの表情をする。
「貴女、ワイルドを好んで読むの?」
すると、結架は後ろめたそうに、
「読んだのは二作だけ。もうひとつは『カンタヴィルの亡霊』よ」
言い訳めいている理由が分かった。
「それも、オペラになってるわね」
「学校の図書室で読んだの。幽霊が頑張って絨毯に血の染みに見えるものを作るようなコミカルさがあるのに、終盤にヴァージニアの秘密となってしまう救済の謎が悲しみを仄めかすでしょう。その落差が切なくて、好きなの」
「慥か、あの幽霊は妻を殺した咎で復讐に餓死させられたのよね。よくよく悲劇的な物語ばかりに引っ掛かるのね、ユイカ」
「あら。ヴァージニアはセシルと幸せになったわ」
何故か得意げな顔つきと声で言う。
今度こそ、マルガリータは噴き出した。
「そうね! ウィンダミア卿夫人も、夫のもとに戻るものね」
「ええ、そうよ。アーリン夫人の献身によって、だけれどね」
微笑んで、ティーカップに口を付ける。その穏やかさが羨ましく思えて、マルガリータは過去の自分を懐かしむ。満ち足りていたころの、幸せな気持ちを。世界の見え方が今とは違う。喧嘩をすることさえ相互理解を深める刺激だと思っていた。結びつきを固くするための益だと言い放つことも出来たほどに。
ただ、この数日、少し自分が変わってきている気もしている。
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