第9場 愛を助言する寓意的な朝の対話(1)

 王立劇場の南東にはノーベル賞受賞者を輩出していることでも知られる、トリーノ大学がある。その近くのジャンバッティスタ・ボジノ通りには、学生たちもよく訪れる書店が幾つかと公立図書館が並ぶ。長く連なる建物に挟まれた道の両端にずらりと並んで停車している車がなければ、一方通行でなくてもいい道幅なのではないかと結架が言っていた。日本では、これほど密着させて駐車することは殆どないという。しかし、イタリアでは見慣れた光景だ。

 珈琲が主流の国ではあるが、実は三〇年ほど前に世界各地の紅茶を自国にも広めようという情熱を燃やした人物が現われた。オリジナル・ブランドを立ち上げた彼は、数年前、フィレンツェに紅茶専門店をオープンさせている。その茶葉を扱うティールームも、トリーノに増えてきた。というのは、集一から聞いた話だ。カヴァルリ家もよく利用しているそうで、健康志向の強い部類の者は紅茶やハーブティーを好むようになりつつあるのだという。身内に紅茶党の者がいるので、そこはフランスと似ていると思われた。

 マルガリータが気に入ったティールームも、この通り沿いにある。店舗面積が小さいため、席数は少ない。ただ、座れなかった日は、これまでのところ一度もない。もしかすると、朝から飲むのであれば紅茶ではなく珈琲と決めている人々のほうが多いのだろうか。春摘みのダージリンが持つ爽やかな花を思わせる香りと口当たりの柔らかい風味に魅了された彼女は、ここ一週間、通いつめているので、座って淹れたてを愉しめるのは嬉しいかぎりだ。

 バールやカッフェの客層とは少し違う雰囲気である。しかし、朝の一杯を活力に目を覚ます街の人々が、政治やらスポーツやら、他愛のない世間話をいくつか交わしてから仕事に向かうのは同じだ。マルガリータも、ごくたまにそのなかに加わるが、殆どは彼らを眺めるだけだ。

 ただ、この日は違っていた。

「マルガリータ」

 声をかけてきた人物の意外さに、彼女はしばらく返事を忘れた。

「おはよう。綺麗な水色すいしょくのダージリンね。春摘みファースト・フラッシュ?」

「──ユイカ」

 亜麻色の髪を揺らして、結架が隣に腰かける。アジア人にしては彫の深い、整いすぎているほどの美貌は店内にも違和感がない。何人かは彼女の光り輝く姿に気がついたようで、賞賛の眼差しを送っている。どうやら声をかけようと腰を浮かしたらしい男性に威嚇の眼差しを送って退けてから、マルガリータはようやく応えた。

「おはよう。まさか、ひとり?」

「ええ」

 注文を済ませた結架が微笑む。

「シューイチは?」

 彼女は小さく笑った。

「マルガリータったら。私も、ひとりで朝の散策くらいはするわ。それに、いつも彼と一緒なわけでもないのよ」

「そうかしら。よくもまあ、シューイチとコースケが貴女を独りで外出させたものだわ。夕べは、シューイチの部屋で、ご一緒だったのでしょ」

 結架の頬が紅潮する。

「曲順をどうするか話し合いをしていただけなのよ」

「そのまま泊まって愛を深めたのではないの?」

「マルガリータ」

「解ってるわよ。どうせ、楽譜に埋もれて疲れて眠ってしまっただけなのでしょ。気の毒なのはシューイチね」

 快活に決めつけるマルガリータに、珍しく結架が強気に出る。

「集一は日本国紳士よ、マルガリータ。私の泊まっているホテルの部屋の扉の前まで、ちゃんと送ってくれたわ」

「まあ、不甲斐ないったらないわね」

「マルガリータ……」

 呆れ声を出す結架は、以前とは違って見える。困惑を示しているのは同じだ。けれども、あのころ途方に暮れていただけだったのは、きっと集一の気持ちを知らなかったからだろう。いまは、彼に愛されていることを彼女は知っている。だから、マルガリータの軽口にも、恥じらうことはあれ、動揺はしない。その揶揄が原因で彼が不快に感じ、結架と距離を置こうとすることはないと理解し、信じているのだ。

 途中で幾つかの別件の仕事があったとはいえ、これほど長い時間を共有してから演奏会に臨むことは、あまりない。

 最初の頃は対人的にも合奏的にも未熟さを見せていた結架だったが、あのピアノ演奏の一件の後、日を追うごとに、自信を深めていっているように見えた。集一と予定している二重奏について打ち合わせていることも影響しているのかもしれない。

 結架のこれまでの演奏活動は、ここ一〇年以上、単独であることが殆どだ。少人数編成の室内楽で通奏低音への理解と習熟は深いが、その少ない共演者も限られた人間だけで占められており、マルガリータの感覚としては刺激に乏しかったのだろうと思われる。

 音楽というものは演奏する者の個性によって味わいが変わる。楽譜が同一で、仮に楽器が同じであっても、違ってくるのだ。だから、例えば違うメンバーで共通の曲を演奏したとすると、それはそれぞれ全く違う経験をすることになる。極端な説明をすれば、声質や響きの異なる歌手が独自に曲調を変えるように、楽器を奏でる者も、独自の演奏を創る。

 多くの音楽家と意見を交わし、ともに響きを調和させていくことは、表現の幅を広げ、ときに全く新しい芸術をも生むことがある。

 出会って間もない時期の結架がカルミレッリに「自信が持てない」というふうに言っていたのは、そうした意味で未成熟だったからだろうと思われる。知識も技術も申し分ない。だが、それは理論だ。実践に勝ることはない。

 だから、ここで国籍も年齢もりの、大勢の仲間と合奏を重ねていくことで、彼女の自己評価が高まっているのだ。仲間たちからの心からの賛辞が、そしてともに奏でる音楽を素晴らしいと感じられることが、彼女の自尊心を目覚めさせたのかもしれない。

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