第8場 久方ぶりの団欒の席に漂うは不穏(2)

 青褪めている都美子の肩に手を乗せた。

「貴女が謝らなければならないことは、何もありません。ただ、あの夜にお願いしたように、彼女のことを他言しないでいただければ、それでいいのです」

「それは勿論ですわ。でも……」

 都美子が言い淀む。その瞳が揺れた。

「大丈夫です。カヴァルリ家が早々に動いてくださって、もう何事もなかったように収まっていますから。僕のほうこそ、都美子さんたちを巻き込んでしまって申し訳ないと思っています」

「いいえ! 集一さまには、本当に助けていただきました。結架さんにも、知人の願いを叶えていただけて、本当に、有難く思っています。どれほどお詫び申し上げても足りないくらいですのに、お目にかかることさえ難しくて、心苦しいのです。アレティーノさんも同じ気持ちですわ」

 常日頃の都美子の姿からは思いもかけないほど、取り乱している。いてもたってもいられない気持ちでいるのだろう。両目には必死な光が満ちていた。

 だが、確かに、あの記事を出した人間を特定すら出来ていない今、『ラ・コロラトゥーラ』には結架を近づけさせられない。都美子のほうも亜杜沙を結架の影武者として立てている以上は警戒すべきだろう。誰が、どこから、どのように見ているのかが分からない。

 実際に父と会って話してさえ、彼を信じる気にはなれないのだ。これまでのあれこれを思い返せば、父は母に黙って動くことに何の迷いも持たないだろうことは確信できた。だから、この場で結架とともにカヴァルリ家から依頼された演奏会のことは口にすべきではない。しかし。

「都美子さん。あのとき彼女がピアノを弾いてくれたことで助けられたと思っているのは、僕らだけではありません。カヴァルリ家の前当主も、その一人です」

「え……?」

 都美子はジャーコモ・デ・カヴァルリと面識がある。以前、彼が日本料理店に興味があると聞いて紹介したことがあるのだ。それだけでなく、集一の演奏家としての活動に多大な援助を齎している人間の家名は企業家の一族としても名高い。ここトリーノは、そのお膝下でもある。

「それに、ピアノを弾けるようになったことを彼女は喜んでいます。だから、貴女もカッラッチさんも、ご自分を責める必要はないんです。責めを負うべきは僕ですし、僕はこの事態を寧ろ踏み台にする気でいますから」

「集一さま……」

 後ろから、明朗快活でありつつも落ちついた響きの声が、笑いを含んで都美子に呼びかける。

「ね? この子は昔から、転んでもただでは起きないのですもの。気に病まなくていいわ、都美子さん」

「弦子さま」

「だから、この話は、これでおしまいにしましょうね。

 それより集一さん。わたしが持ってきた『乗馬する薔薇の乙女』だけれど、留金は直してありますよ。天鵞絨ベルベット本繻子サテンのチョーカーネックレスのバンドも、とても綺麗な状態で、問題なく使えるわ。同じコンクシェルの薔薇のイヤリングも、欠けることなく一緒に箱に揃っていますからね」

 日本から持ってきてもらえるように頼んできたとき、一番に集一が気にしていたことを伝えただけだったのだが、誠一と都美子は目を見開いて彼を凝視した。

 些か居心地の悪い思いをしつつ席に戻り、集一は母だけに視線を固定して微笑む。

「ありがとうございます、お母さん。手間をかけさせてしまいましたね」

 弦子は上品な声で笑った。

「あら、わたしは手間だと思いませんでしたよ。お義母かあさまが、貴方の大切な女性かたにと言い遺されて預かってきた身としては、漸く持ち主が決まったようで喜ばしいかぎりだわ。でも、指輪のほうは、本当にまだ渡さないつもりなの?」

「僕を見極めてもらう時間を省くつもりはありませんから。『乗馬する薔薇の乙女この品』も、僕のそばに居てもいいと思ってもらえるあいだにだけ、彼女に持っていてもらうつもりです。お祖母さんの形見でもありますからね」

「貴方に似つかわしくなく弱気だこと。そんなに高嶺の花に手を出そうと言うのかしら」

「なにしろ彼女は天使ですから」

「まあ。紹介してもらえるのが楽しみね」

「ちょ、ちょっと待て!」

 にこやかに会話を進める妻と息子に、誠一が大きな声を出した。

「勝手は許さんぞ、集一。おまえの結婚相手は選別中だ」

 大企業を動かしているという責任の重い立場の人間としての彼の発言に免疫のある二人は、まったく動じない。

 集一は穏やかに、さきほどの母のようなこなしを思い浮かべながら父の発した重大発言を躱そうとして、

「それはまた、お父さんの経営手腕からは思いもかけない無益な手間をかけているんですね。僕にどのような理想的な相手をあてがったとしても、どうせ僕自身は事業を継ぎません。苦労して縁談をまとめたところで、将来的に外戚に大きな顔をされることになるのが関の山でしょう」

 見事に失敗した。

 誠一の顔が蒼くなり、それから急激に血色を高めるのを見て都美子は狼狽したが、弦子は眉一本動かさない。集一は思わず本音のみで返してしまったことに多少なりとも動揺しつつ、それでも表情には出さなかった。

「……理に適ってはいるわね。でも、集一さん。誠一さんの気持ちは解っているでしょう。お立場から決断したことが、貴方の意に染まぬこともあると。決して貴方の幸せを考えていないわけではないのよ」

 集一が返事をする前に顔を横に向けて、

「それから、誠一さん。集一さんの結婚に関しては、貴方だけで決めるようなことはしないと、随分と前にお約束しましたわよね。高円たかまど家への非礼を、わたしは今でも許していませんのよ。わたしの知らぬところで動かないでくださるわね」

 にっこりと笑まれて言われたのに気圧されたのか、誠一は、渋々ながらも頷いた。

「それは分かっている」

「でしたら、よろしいわ。では、話が落ちついたところで、お食事にしましょうか」

 春の陽だまりのような雰囲気を醸し出していながら太く鋭い釘を夫にさした弦子が都美子に目配せをすると、彼女は機敏に動きだした。

「お膳は用意いたしておりますので、お運びいたしますね」

 食事に時間をかけることを嫌う誠一への配慮か、すでに数品が並べられた膳が運ばれてきた。少し時間をおいて揚げたての天ぷらと牛肉の和風ステーキ、白飯に汁物、茶碗蒸しなど温かい料理が届く。それらに箸をつけつつ、時折、思い出したかのように挟まれる弦子の世間話に父子は当たり障りのない返事をして過ごした。

 家族の全員が揃っての食事など、いつぶりだろうか。

 集一がそう思っていると、デザートとして氷菓が卓上に置かれた。上品に盛られてはいるが、要するに、かき氷だ。透明のままでシロップに色はついていない。口に入れると、甘いながらも爽やかな、柚子の風味が広がった。

「まあ、これはとびきり美味しいわ」

 喜ぶ弦子の声が弾んだ。

 それを受けて、誠一の表情が柔らかくなる。なんだかんだ言いつつ、愛妻家なのだ。その、妻に対する思いやりの一部でもいいから、息子にまわしてもらえないだろうかと、集一はぼんやり思った。

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