第8場 久方ぶりの団欒の席に漂うは不穏(1)

 録音の日程のあいだにあった休日。集一は都美子の店で訪問者と会うことになっていた。約束の時間より三〇分も早くに着いたが、出迎えの女性は隙のない微笑みを浮かべて、

「お待ちかねですわ」

 柔らかく告げると、集一を例のVIP専用室に案内したのだった。

 襖が開く前に、軽く息を止めて呼吸を整える。

「ご到着なさいました」

「ありがとう」

 中から響いた女性の声を待ってから、案内の女性が襖を開ける。中庭に面した窓の障子は閉められていたが、室内は明るい。一枚板の大きな座卓の前に、不機嫌でいるのを隠さない男性と、それを気にも留めずに朗らかな笑みを崩さない女性が並んで座っていた。

「お久しぶりです」

 廊下で一礼してから堅苦しい語調で挨拶の言葉を放った集一に男性は無言で一瞥のみを寄越したが、女性のほうは隣から発される不穏な雰囲気を意に介することなく応えた。

「そうね。お入りなさい、集一さん」

「はい、お母さん」

 冷ややかな表情のまま、向かい合った席の座布団に身を落ちつかせる。部屋の隅に控えていた都美子が新しく茶器を整え、先客の二人に供していたほうの冷めたものを下げてから全員に呈茶していくのを、三人は黙ったまま待った。仮初かりそめの平和を惜しむような気持ちでいるのは集一だけだろうが、爆撃が来ることを予想していない者はいないようで、室内の緊張感は一定の水準を保っている。

「ありがとう、都美子さん。下がっていらしてね」

 都美子は顔を上げ、僅かに何かを言いたそうな表情を見せたが、すぐに思い直したように深々と一礼し、退室した。

 室内には親子だけが残されたものの、沈黙は暫く続いた。

 やがて、口火を切ったのは、矢張り、いつもこういうときに場の主導権を握っている人物だった。

「……頼まれたものは、両方とも、ここに持ってきたわ。幸い機内に持ち込める限界に近い大きさで、梱包も念入りにしてもらったから問題ないと思うのだけれど、確認しますか?」

 集一は視線だけを母の横に向け、すぐに首を横に振る。

「いえ、後で大丈夫です。わざわざ遠くまで、ありがとうございます。急いでいたので、運んでいただいて助かりました」

「いいのよ。誠一せいいちさんときたら、わたしが遠出するのを嫌がるものだから、こういうことでもないと国外に出ることなんてそうそう出来ないのですもの。良い口実にさせてもらいました」

 楽しげに笑う母の機嫌がとても良い。結婚前には欧州が彼女の拠点だった。空気が懐かしいのだろう。活き活きとしている。

 仏頂面がしかめ面になった男性のことを殊更に無視して、母子は会話を続ける。

「でも、本当に手離していいのですか」

「構わないわ。これも何かの縁でしょう。登川とがわさんは些事に拘る方ではありませんし、経緯をお話ししたら、大いに感動なさって、何やらインスピレーションが湧いたそうよ。新しい事業の計画に活かしたいそうです」

 大らかで豪放磊落な知人の、大地も震えそうな笑い声が聞こえたような気がして、集一は苦笑する。

「では、ありがたく頂戴します」

「ええ。よいようになさい」

「それより」

 苛立たしげに発された声に、空気が変わる。

「今日は休日なのか? もうじき本番だろう。録音レコーディングは、どこまで進んでいる?」

 発言の意図を測りかねた集一は、どういう表情をしていいものかも決めかねる。しかし、今回の演奏会に協賛している会社の長としての質問だろうと解釈することにした。

「録音は大半が終わっています。あと二日間は録音に使えますが、この調子なら早く完了するかもしれません。今日は別の演奏会に出演する奏者メンバーがいまして、休みなんです」

「そうか」

 意外なほど、あっさりと了解した様子に内心では驚いてしまう。茶器を取りあげて茶を啜る彼の隣で、母が忍び笑いを漏らした。

「誠一さん。本当にお聞きになりたいことは、後に回さないほうが宜しいですよ」

 茶器を持つ手が、ぐっと強張る。

「何を言ってる、弦子ふさこ。訊くべきことは、ほかにない」

「まあ、そうですか。思いこみでしたかしら」

 いつものように、彼女は風に羽毛が舞い上がるような捉えどころのない軽やかさで夫の強い調子の言葉を躱した。

 誠一の表情が僅かに崩れる。こういう顔を見せるのは、妻にだけのようだ。集一は白けていたが、両親の仲が円満そうなことに、文句はない。

「……だが、王立劇場のホームページをクラッキングした者の素性も目的も、調査報告は上がっていない。その後、妙な動きは見られないようだが、おまえたちは大丈夫なのか」

 思わず集一は硬直した。

 いちばんに疑っている者の口から案じるようなことを言われて、正直、不快感が湧き上がる。口中に苦味を感じた。空気が不味い。

「カヴァルリ家の対策に不備はありえません」

 意識して不敵な笑みを浮かべた息子に、誠一がじっと視線を向ける。その瞳には単純に父親として子を心配するような感情を窺わせるものは見当たらなかったが、何かを確認しようとする妙な真剣さを集一に感じさせた。

 腹を探るような、或いは威嚇するような眼光をぶつけ合う二人に、弦子が態と大きなため息を放った。

「会話を始めるなり険悪な空気を作るのは止めて頂戴、二人とも。それから、集一さん」

「はい」

 すらりと襖が開いて、ずっと控えていたらしい都美子が、床に着くほどに頭を下げた。

「え?」

 緩やかに頭を上げ、

「このたびは、わたくしが浅はかに願い出ましたことで騒ぎを招いてしまい、大変、申し訳ないことを致しました。多くの方々にも、大変なご迷惑をおかけしてしまい──」

「いえ、都美子さん!」

 慌てて立ち上がり、大股で部屋を出て、集一は廊下にいる都美子の傍らに跪く。

「貴女は相応しい誰かを紹介してほしいと言っただけで、判断を誤ったのは僕です。貴女に落ち度はありません」

「わたしも、そう言ったんだがな」

 素気そっけない口調の言葉が突き刺さったが、集一は反駁せずに呑み込んだ。発言者が誰であろうと、それが正しいものである限り、曲げようとしてはならない。

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