第7場 験かつぎと音楽家たち(2)

「ねえ、休憩が終わっちゃうよ。早く休憩室でカッフェでも飲もうよ」

 すこし尖った口調のカルミレッリに促され、一同は休憩室へと向かう。

 結架は、旧知の録音技師である栗生くりゅうには朝に挨拶していたので、一礼だけして廊下に出た。

「あの録音技師さん、ユイカの知り合いなんだって?」

 結架の右隣の席を確保することに成功したカルミレッリが、紙コップに砂糖を入れながら明るく尋ねた。

「ええ。私の初めての録音から、栗生さんにはずっと担当してもらっているわ」

 カルミレッリが砂糖を追加する。自他ともに認める甘党である彼は、いつも一杯の珈琲に最低でも三杯は砂糖を溶かす。しかも、大盛りで。胸が焼けそうだとマルガリータなどは言い放つのだが、そう言う彼女自身も二杯は入れているのだから、どちらもどちらだろう。

「すごいセッティングに厳しい人だね。何回も配置を変えてマイクの高さや角度を試したし、機材も増やしたし」

「こだわりが強いのはいいことだよ。とくに録音は、音を封じこめることだから、できるだけ生き生きとしたままの演奏であってほしい」

 休憩室で合流したアンソニーが言った。彼は模範的な愛妻家らしく先に休憩室に来て、猫舌の妻のぶんの珈琲も用意していた。

「そうね。できるかぎり、わたしたちが演奏した、そのままを録音できたらいいわ」

「演奏そのものを、か」

「息づかいも、生々しく?」

「ときどき、僕のキイの音が気になるっていう声も聞こえるけどね」

 集一が溜め息まじりに言った。

 キイ。

 オーボエの機構である、金属の可動部分のことだ。指で押さえて音孔トーンホールを開けたり塞いだりして音階を操作する。

 音孔に被さる金属の皿にはタンポと呼ばれるフェルトやコルクなどで出来た緩衝材があるので、音を立てるのは別の部分だろう。キイを押せばパイプの中の芯金しんがねも動いているし、指を離せばキイポストの発条ばねがキイを浮かせてもとの位置に戻すし、音を立てても不思議ではない造りではある。勿論、定期的に専用のオイルを差して錆びつきを防ぎつつ滑らかな動作になるよう整えてはいる。だが、どうしても、駆動音は完全には消せない。

 協奏曲や交響曲などで気になることはまずないが、無伴奏や二重奏、三重奏規模の編成では耳につくこともある。これは音階を変えるピアノの鍵盤のように重要な機構なので、同じ仕組みのものを持つクラリネットなども、同じく悩みのたねだろう。

「ああ、あの、かちゃかちゃいう音? 構造上、仕方ないんじゃない。そんなに気にならないわよ」

 マルガリータの言葉に、集一は数秒間、黙りこんだ。

「やっぱり、聴こえるかい?」

 彼が小さく吐息するのを聞いて、全員が、どきりとした。

「以前、バーゼル音楽院に入学審査のために送った録音演奏の感想を入学後に教授に聞いたら、打鍵の音が大きくて生々しかったと言われてね。それ以来、なんだか自分でも気になって仕方ないんだ。演奏中は、それほどでもないけど」

 炭酸抜きのミネラルウォーターのボトルを手に、集一が物憂げな視線を彷徨わせる。その優麗な姿に、女性たちは例外なく感嘆の息をいた。アンソニーとカルミレッリは、うっとりと目を潤ませる彼女たちを見て苦笑した。しかし、そんな彼らから見ても、集一の美貌は際立っている。

 女性たちが見惚れて恍惚としてしまうのも、無理からぬことだと思われるほどに。

 鳶色の大きな瞳が、ゆっくりと結架を捉える。見つめられた彼女は目をしばたたかせた。

「結架。きみにも聴こえてる?」

 一瞬、結架は喉に空気がつまったように感じた。

「──聴こえてるわ。でも、私は──心地いいの」

 全員の視線が結架に集中する。

「雑音に感じないの?」

 横から問うカルミレッリに、結架は困惑の笑みを見せた。

「いいえ。だって、それも楽器の音の一部だもの。指の動く音でしょう」

 一同を驚きの波が襲った。

 独特の金属音は決して派手な音ではない。しかし、例えば小さな針を床に落としたような音でも、幾度も続けば、気になってしまうものだ。

「へえ。モーツァルトみたいだ」

 作曲家、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト。彼は急ぎの作曲の仕事中に、妻のコンスタンツェに『アラジンの不思議なランプ』や『灰かぶり姫』のようなお伽噺や、軽く愉快な話を望んだという。パンチと彼女の語る話とが、彼の仕事の円滑な進捗に有益であった。作曲という、精密な音の作業において、必ずしも静寂が必要ではないひとがいるということの証明となる逸話だ。

 しかし、マルガリータは頷かなかった。

「あれは、ちょっと違う気もするけど。演奏時と作曲時では、条件も違ってくるもの」

「そうね。でも、自分の音楽に没入していると、演奏会のときの客席の音も、聴こえなくならない?」

 それには全員が頷いた。

 咳払いや鼻をすする音、幼い子の声も、ステージの上では気にならなくなる。うまく音楽の世界に心身を沈められれば。

「ま、とにかくだ。気にするなってこと」

 アンソニーが気安げに言って集一の肩を軽く叩く。

「そうだね。ありがとう」

 休憩時間は、和やかに過ぎていった。

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