第7場 験かつぎと音楽家たち(1) 

 弦楽五重奏の演奏会のために抜けていたカルミレッリたちが帰ってきて、翌日から録音が始まった。アルビノーニのオーボエ協奏曲を六曲と、ボーナスディスクとしてバッハとヴィヴァルディの協奏曲も合わせて四曲、収録されることになっている。

 日程として確保されているのは五日間。

 極度の緊張状態に置かれる奏者たちの精神集中の限界を考えて、録音のための時間は午前に二時間、午後に正味三時間とれるかどうか。一〇曲を録るからには、一日に二曲は進めたい。これまでの練習や調整で完成度を上げてあるため余裕に思えるものの、録音の都度、出来を確認する録音プロデューサーの厳しい耳が雑音を拾うかぎり、何度でも録り直しさせられるので、油断はならない。

 ボーナストラックを入れるのではなく作品七も全曲を録音するという選択もないわけではなかったが、カヴァルリ氏の一声で、バッハとヴィヴァルディを収録曲に含めることになったといえる。

 演奏会では演奏しない曲目を録音に入れることでCDの売り上げを伸ばす目的もあり、収録しない曲目を演奏会で演奏することにより来場者を増やす目的もあり、ということだった。

 利益を出さねば次はない。

 そうした厳しい状況にあって、演奏したい曲を演奏できる集一にとっては、幸せなことである。どの選曲も、彼の要望が最大限に取り入れられているのだ。

「やっぱり、凄い破格の待遇よね」

 マルガリータが誰ともなしに呟くと、皆、小さく笑ったものである。

「ボーナストラックが半分くらい入るなんて、贅沢なものだよ」

「二枚組のコンパクト・ディスクだよな。どうせなら三枚組にして、マルチェッロやサンマルティーニを加えても良かったんじゃないか?」

「バッハの協奏曲は、とてもやりがいがあるからね。もう少し早くから録音の日程が取れていたら、それも出来たかもしれない」

「それなら、ふたつのオーボエのための協奏曲も録音したかったな、シューイチの師匠とか呼んで。きっと凄い豪華盤になっただろう」

「そうしたら、アルビノーニのオーボエ協奏曲全集になりそうじゃないか。さすがに、それは無理だろう。いや、迚も魅力的な提案ではあるが」

 そんなことを話しながら、楽器を準備していく。

 集一と結架は顔を見合わせ、笑みを交わした。

 本当に、気のいい仲間たちだ。

 録音作業は比較的順調に進んでいった。初日の午前中はセッティングだけで終わってしまったが、それほど録り直しを重ねることなく二曲の録音が進み、この速さなら、予定した日数に達するより前に終了するのではないかと思われた。

「早く終わりたいね。そうすれば、休める時間が増える」

 小休憩となり、うきうきと発言したのはカルミレッリだ。

「あら、休みのほうがいいの、カルミレッリ?」

 近くにいたレーシェンが、少し驚いたような声で言う。

「そりゃあ、録音と本番は短いほうがいいな。教会での録音で地下鉄の電車が通るたびに中断するよりはいいけど。あまり長いと、胃がよじれそうなんだ」

 楽器コントラバスを横たえさせながら、カルミレッリは苦笑する。

 同じように楽器チェロを横たえさせていたストックマイヤーが頷いた。

「たしかに。本番の緊張感は、おれも未だに苦手だな」

「靴が変わると安心できなくて、本番で履く靴は一五年も同じのを使ってるって聞いたけど、ほんと?」

 それを聞きつけた結架が、驚きに声を上げた。

「まあ、そうなんですの?」

 ストックマイヤーの頬に赤みがさす。

「一五年前、大成功した本番で履いていた靴でね」

「わかるわ。私も、この八年ほど同じ靴を本番用にしてるもの。もう何度も靴底を換えてるわ」

「うわあ。レーシェンもなんだ。ぼくも、この本番で履く靴を、いっそのこと新調しようかな。今後、験をかつげるように」

「靴に限らなくてもいいのよ、カルミレッリ。アンソニーは、たまたま大成功した本番の日に新しくしたばかりのカフスを、縁起がいいからって、いつも本番用にしているわよ」

「まあ」

 結架が歎声を上げる。そこへ、集一とマルガリータが近づいてきた。

「あら、なんの話?」

「縁起かつぎの話だよ。公演が大成功したときの靴やカフスを本番用にとっておくって」

 マルガリータの表情に、悪戯っぽい笑みが現れた。

「そうね。ピアニストや独奏者ソリストの女性はドレスによって靴の色も変わるし、アクセサリーも髪飾りも変わるから、あまりユイカには馴染みのない話ね。ドレスの形によっては下着も変えなきゃいけないもの」

 今度は結架とカルミレッリの頬が染まった。

「マルガリータったら、はしたないわよ」

「あら、レーシェンはいいわよ。アンソニーにプレゼントされたピアスがあるでしょ。わたしは本当に下着くらいしか勝負用に験をかつぐ品がないんだから。ユイカと同じ」

「わ、私、そんな、験をかつぐ品は特にありませんわ」

 慌てて両手を横に振る結架の様子に、マルガリータが軽やかな声で笑った。

「ですってよ、シューイチ。なにか考えなきゃね」

「そうですね」

 余裕たっぷりに答えた集一の顔を見て、結架の顔は首のほうまで紅潮した。

「いいなあ。ぼく、どうしようかなあ」

「カルミレッリは靴でもチーフでもカフスでも、選り取り見取りじゃない。ユイカなんて大変よ。演奏の邪魔にならずに毎回、持っていられるものなんて、なかなか無いわ。楽譜にクリップ、なんてものぐらいかしら?」

「でも、できるだけシンプルなネックレスとか、指輪ならどうかしら? 慣れれば違和感はないんじゃないかしら」

 レーシェンの言葉に、マルガリータは大きく頷く。

「そうね! シューイチ、参考になさい」

 マルガリータとレーシェンの盛り上がりように気圧されて、結架は一言も口を挟めない。ストックマイヤーも苦笑ぎみに成り行きを見守っている。カルミレッリは話題を横からさらわれた所為か、少々不機嫌な様子だ。しかし、集一は朗らかな微笑を保ち、穏やかに佇む。

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