第6場 鞍木の疑心

 カヴァルリ邸での結架と集一の合奏演奏会の曲目がほぼ決定し、いくつかの楽譜を揃えた鞍木は、ミレイチェに状況を伝えた。彼が手配を受け持ってくれたぶんの楽譜もあるので、それを受け取りに行く。ミレイチェの部下は優秀らしく、曲ごとに封筒に収められてファイルに綴じられた状態のそれには、鞍木が用意した楽譜も一緒に纏められるようになっていた。結架のピアノパート譜と、集一のオーボエパート譜とで、それぞれに別れている曲の楽譜もあるので、ファイルには判りやすく楽器名のラベルが貼ってある。

 ミレイチェが結架に渡してくれと言った書類を、鞍木は一言断りを入れてから確認した。その中には、使用楽器についての説明が写真付きで含まれている。

 カヴァルリ邸にあるピアノは二台。

 そのうちの一台は、ファツィオリ社のロイヤル・モデルで、広い空間にも対応できる響きを持つ、四本ペダルのピアノだ。

 もう一台は、ドイツの三大ピアノ製造会社の頂点に立つと讃える人も多い、ベヒシュタイン社のマイスターピース。ピアノのストラディヴァリウスとの呼び声高く、一晩でピアノを弾き潰すと有名だったフランツ・リストも愛したと言われ、アップライトの概念をも打ち壊す名器を生んでいる。

 広い談話室と、続き部屋になっている応接リビングに、それぞれ置かれているとのことで、部屋の壁に設えられた扉は引き戸になっており壁の中に扉が収納されるようにして開くといった構造であるため、どちらのピアノで演奏するかは結架の自由にしてよいということだった。

 当日の二日前には集一とともにカヴァルリ邸に入り、じっくり試奏してピアノを選んでいいという。

「これは、また、凄いピアノを所有されてますね」

「ロレンツォ卿の亡き御令室が音楽好きでしてね。よく、プロのピアニストを招いておられました。国立音楽院の学生に貸し出すこともあるそうですよ」

 ──それは豪儀な。

 酒場で結架がピアノを弾いたと知ったときは驚き、困惑したものだが、こうなってくると、それも幸運なことだったとすら思えてくる。ただ過去の傷による不調から立ち直っただけではない。カヴァルリ家が重要とする人物と友誼を結べることは、結架の将来にとって大きい。個人的な集まりだというこの機会で招待されたのは親族や親しい友人などの厳選された人々であるだろうから、不安を抱かずに新しい人脈を得られる。

 ミレイチェがコンサート・プロデューサーとして働いている代理店は、カヴァルリ家と縁が深いという。当然、ジャーコモ・デ・カヴァルリが古典音楽の守護聖人パトローネッサ・ディ・ムージカ・アンティカ財団の理事であることもあって、招待される客のことも知っているらしく、どういった関係の、どういった人物かについても、粗方説明してくれた。

 あの面倒事についてミラーノにいた鞍木に第一報をくれたのも、ミレイチェだった。対応について話すので戻ってきてほしいという要請についてはすぐさま諒解したものの、「寝耳に水なことだ」と言った彼に、時間が経つごとに不自然さを感じている。

 『ラ・コロラトゥーラ』は、そもそもはミレイチェが楽団の全員を案内した酒場だ。店主であるアレティーノはミレイチェの知人であると、彼自身が言っていた。都美子と亜杜沙、アレティーノが、集一と結架がミレイチェの受け持っているコンサートでの共演者だと、知っていたとしたら?

 ミレイチェが何も知らなかったというのは本当だろうか。

「もし、結架くんがピアニストとして『ラ・コロラトゥーラ』に行くと聞いていたら、貴方は報せてくれましたか」

 思わず、鞍木はそう問い詰めたい衝動に駆られた。

 しかし、日本料理店の女将と酒場の店主、そしてミレイチェの三人が親しいのはあくまでも偶然で、すべてを報告し合っているとは限らない。また、ミレイチェの仕事と二人の演奏家の関係を知っていて、都美子たちが隠した可能性も、ないとは言えない。

 ただ、あのとき、立場上、

 ──いやなものだ、疑いを広げるのは。

 結架を守ってきたこれまでに、鞍木が疑いを抱くとすれば、それはほぼ一人の人間に限られていた。彼と同じほどに結架を大切にしていながら、その守り方は対極にある。

 ため息を押し殺しつつ無表情を心がけながら、鞍木は書類をめくる。

「ああ、そうです。ミスター・クラキ。その中には記載がありませんが、もし、ミス・オリハシが承諾してくださるようであれば、アルビノーニのオーボエ協奏曲コンサートが終わった後、カヴァルリ邸に滞在していただくことも出来ます。その間、貴方にも部屋を用意できるそうです」

「え?」

 一瞬、耳を疑った。

 それは、ほぼ三週間の期間となる。

 結架は帰国させないつもりでいたが、鞍木は迷っていた。一人で帰国すれば、おそらくは非常に面倒なことになる。しかし、結架を日本には戻せない。対策は父と相談済みだが、鞍木自身も、少なくともヨーロッパに居るべきだというのが母の意見だった。

「それは大変にありがたいお申し出ですが……彼女に別の仕事を受ける可能性もありますので、すぐには返答いたしかねますね」

 ミレイチェが尤もだと言わんばかりに大きく頷く。

「ええ、そうですね。それに、あの家に滞在していたら、ロレンツォ卿に毎晩のようにピアノ演奏をせがまれるかもしれませんから。お勧めはいたしませんよ」

 口調も声色も冗談を言っているときのものだが、目は本気だった。

 鞍木は愛想笑いで返す。

 たしかに、予測して然るべき状況だ。

 不眠症の対処療法としてバッハに注文した曲の演奏を毎晩就寝時に求めていたといわれる、カイザーリンク伯爵。その要求に応えていたのは、バッハの弟子ゴルトベルクだという。当時一四歳の少年が、総演奏時間が一時間以上もあり、それなりに難易度の高い技術を要する曲を、本当に毎夜、弾いたものか。そうした疑問の声もあるものの、曲自体は演奏者の名前から『ゴルトベルク変奏曲』と名付けられている。この休みなしでの長大な曲が当時としては珍しいことは確かで、不眠症を慰めるという理由が尤もらしくはある。

 ロレンツォが不眠症だとは聞いていないが、音楽を殊のほか愛する彼のことだ。まして、『勝利者のメダル』と名のつく金記章を三枚も与えたほどに感銘を受けた演奏者が邸内にいる機会を、みすみす逃すとは思えない。結架にゴルトベルクとなるよう望んでも、不思議ではないだろう。

「ご忠告は伝えたほうが良さそうですね。ありがとうございます。ただ、このピアノを毎晩でも弾けるかもしれないと知ったら、彼女は寧ろ喜び勇んでしまうかもしれません」

 真面目に頷きながらも謝辞と軽口を述べると、ミレイチェは笑った。

「遠慮することはありませんが、あなたがたは奥ゆかしいですからね。もしも気まずいようでしたら、私の方でも仕事の仲介をすることも色々と考えていますので、宜しければ、今後の予定を早めることも ご検討ください」

「そうですね、是非」

 やはり、どうやってもクラシック演奏家にとって欧州ほど望ましい環境は日本にはない。結架さえ望むのなら、拠点を日本から動かすことも、当然、ずっと考えてきた。急がず、焦らず、しくじらぬように、徐々に。

 この世界は才能と実力だけでは活動していけない。努力の継続は当然に、運という出会いや機会のチャンスを掴めるかどうかも重要だ。訪れたところで、必ずしも手を招かれるとは限らないのだから。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る