第5場 開かれた心の扉(2)

 一年後に戻ってきた姫は兄たちがいなくなったことを知り、彼らを探す旅に出る。森で出会った老婆に十一羽の白鳥のことを聞き、兄たちではないかと感じとった姫は目撃談から川を下り、ベッドと木靴が十一揃いある小屋に辿り着いた。城に残されていた兄たちの銀の靴を持ってきていた姫は、それを小屋に置くと身を隠し、様子を窺った。

 夜になり、白鳥たちが舞い降りて、次々と王子の姿に戻った。夜のあいだだけ、彼らは人間の姿に戻れるのである。彼らは懐かしい自分たちの靴を見ると、妹が探しに来たのだと大騒ぎし、彼女を探しだして再会を喜んだ。

 しかし、朝が来れば、彼らはまた白鳥の姿になってしまう。

 悲しむ彼女に兄の一人が不思議な話をした。

 呪いが解ける方法を夢で見た、と。

 それは、触れると棘が刺さるイラクサを踏んで糸をとり、布に織って十一枚のシャツを縫い上げること。ただし、そのあいだ、決して一言も口をきいてはならない。

 姫は怖気づくことなく、その苦行を果たすことを誓った。

 そして、次の朝から、来る日も来る日も指や足から血を流しながら、兄たちのシャツを作っていった。どれほどの痛みにも、泣き声ひとつ上げることなく。

 ある日、若い王さまが姫を見つけ、その美しさといじらしさに夢中になって、自分の妃になってほしいと、彼女を連れ帰った。王妃となっても彼女はイラクサを摘みつづけ、踏み、糸をとり、布を織ってシャツを縫った。

 つらい仕事に耐えていた彼女を、さらに苦難は襲う。

 戦争が起こって、夫が戦場へ出て行ってしまったのだ。その留守に双子の王子を産んだ姫のことを知り、継母の魔女が追ってきた。城の家来を捕まえて手下とし、双子の王子を殺すように命じると、かわりに仔犬を二匹、ゆりかごに入れた。そのうえで、国じゅうに王妃が犬の子を産んだと触れまわったのだ。

 戦争を終えて帰ってきた夫の王は、一言も口をきかない妃が犬の子を産んだと知り、彼女を魔女だとして死刑を言い渡す。それでも彼女は誓いを守ってシャツを縫いつづけた。牢のなかでも、処刑場へ向かう馬車のなかでも。

 そして、漸くシャツを十一枚、縫い上げた。

 処刑場へ馬車が入っていったとき、十一羽の白鳥が現れる。大空の兄たちに向け、姫は出来上がったばかりのシャツを投げ上げた。それに袖を通した白鳥たちは、たちまち元の王子に姿を戻す。

 誓いを果たした姫は沈黙の戒めを解かれ、すべてを夫に話した。

 そして、そのとき家来がやってきて、匿っていた双子の王子を連れてくると、洗いざらい打ち明けたのである。

 準備の整った処刑場で刑が執行されたのは、本物の魔女だったことは、言うまでもあるまい。

「その王子である白鳥たちが舞って、元の姿に戻る場面を再現した、本当に精緻で素晴らしい仕掛けの時計だったの」

 マルガリータが嘆息まじりに言った。

 集一は、内心の動揺を隠す。感情を見破られないように取り繕うことも、彼の特技のひとつだ。

「いかにも、きみに似合うお伽噺だね」

「ありがとう。心の強い姫を敬愛するわ」

「それで、その時計がどうしたの?」

 マルガリータが蜂蜜色の髪を振る。

「結婚祝いに、わたしとフェゼリーゴが譲り受けるはずだったの。お義母かあさんから。新居の居間に飾ろうって話もしてたのよ。なのに」

 緑の瞳に怒りが燃える。

「フェゼリーゴの兄が、勝手に、売っちゃったのよ。借金のかたにね。よりによって、あの時計を。ほかにも時計はあったのに、あの時計をよ。まるで狙ったみたいに」

 語調が鋭く、強まっていった。

「わざとわたしが悲しむように。でも、フェゼリーゴは一言も抗議してくれなかったわ。お義母さんも、何も言わなかった。誰も、わたしがどんなに落胆したか、目もくれなかった」

 大きなため息。

 集一は、自分だったらと考えた。

 売ってしまったものは仕方がない。

 しかし、誠意ある対応をしてもらえなければ。

 やはり、マルガリータと同じように怒りに震えただろう。約束を破っておいて、仕方ないなで済まされることの悔しさ。家族だからこそ、心配りが必要なときもある。

 たった、一言ひとこと

 心からの謝罪の言葉があれば、いまは違っていたかもしれない。

 マルガリータ自身も、そう言った。

「お義兄にいさんが謝ってくれて、お義母さんとフェゼリーゴに慰められていたら、こんなに意固地にならなかったかもしれないわ。でも、三人とも、わたしを軽んじたの。取るに足らない、怒ろうがどうしようが構わない相手だって。わたしは、それが悔しくて、我慢ならないのよ」

 再び、大きなため息。

「だから、未だに彼を前にすると、その悔しさが甦ってしまうのね。駄目だって解ってるけど、気持ちが追いつかないのよ。反省はしてるのよ。あのときだって」

 結架と集一を揶揄って、フェゼリーゴに窘められた、あのとき。

「わたしが揶揄いすぎたって、解ってるの。でも、わたしの気持ちを黙殺した、彼に言われたくないわ」

 彼女は目を閉じ、深く息を吐き、やがて目を開けた。

「……だけど、そうね。わたし、あなたたちに干渉しすぎているのかも。勝手な話だけれど、あなたたちが関係を深めれば深めるほど、わたしにも幸せが感じられる気がするのよ。勿論、あなたたちの幸せが嬉しいって気持ちも、あるわ」

「マルガリータ」

「シューイチ。あのこと……黙っていてくれてるのね?」

 透明度の高い瞳に疑いはない。

 それに答えようとしたとき。

 扉が開いて、天使が飛びこんできた。

「ごめんなさい、すっかり遅れてしまって」

 一瞬で、マルガリータの表情が華やぐ。

「あら! いいのよ。譜読みしてたんでしょ。あなたのことだから、暗譜してきたのかしら」

 結架は面食らったが、集一の目配せに気づいて微笑んだ。

「え、ええ。現代譜の暗譜はしたわ。でも、ファクシミリ譜のほうは、納得できない部分があって……」

 現代譜とは、現在の解釈で出版された、印字の楽譜だ。ファクシミリ譜は、作曲家の弟子などが自筆譜を写譜した、手書きの譜面を印刷したものである。手書きなので、写譜したときに間違えたり、抜かしてしまった部分があることがあり、奏者を悩ませることもある。前後の音型や、相似部分の音型をもとに類推して、訂正したり書き加えたりしなければならない。そうでないと、音が余ったり、足りなくなったり、不自然な音響になるのだ。

「ああ、テレマンの変ホだね。ゆうべロレンツォ卿から電話があって、あれは撤回だそうだよ」

 結架が首を傾げた。

「そうなの?」

「カール・フィリップ・エマヌエル・バッハのト短調に変更。でも、第三楽章だけでいいっていう指定なんだ。楽譜は現代譜だそうだよ。カッラッチさんが、今夜にでも用意して、渡してくれることになってる」

「じゃあ、明日には合わせられそうね」

「あらあら。カヴァルリ氏からの指定曲なら外せないわね。あなたたち、何時間、合奏するつもりなの?」

 そう言って、マルガリータは楽しげに、ころころと笑った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る