第5場 開かれた心の扉(1)

 結架のピアノなしでは判断しかねるなどと言いながらも、マルガリータは集一の演奏水準から避けるべき、というより見送るべき曲を選出しようとしていた。また、ヴァイオリン奏法ならではの音型をオーボエの奏法に合わせるため変更した部分について、さらに改善できないかと提案した。すなわち、重ねて奏でる音を単一とするか、トリルとするか、分散和音に発展させるか、などである。

 いろいろヴァイオリンで弾いてみつつ、彼女はああでもない、こうでもないと呟いた。

「問題は三五番の第二楽章にある第五変奏のピッツィカートよね。あれはオーボエには向かない音型だけど、どうするの?」

 集一は黙って見事なタンギングで吹いて見せた。

 マルガリータが顔をしかめる。

「ああ、心配するだけ無駄ね。それだけはじけるような音が吹けるなら」

 思わず集一は誇らしげな笑顔になった。

「タンギングは得意でね。ピアノの旋律と入れ替えるつもりだから、この曲は、もともと必要がないけれど、僕はダブルタンギングでなくても間に合う舌つきができるんだ」

 発音体に舌を触れさせて音を区切るタンギングに息づかいを組み合わせたダブルタンギングは、音符の速さに舌の動きがついていけない場合の奏法だ。集一は舌の活動がもともと速いので、息を使って音を切る必要がない。これまでにダブルタンギングを駆使したのは試験のときだけだ。

 マルガリータが横目で集一を見つめる。

「それは閨の営みに大いに貢献しそうだわね」

 集一の瞬きが止まった。

「ユイカに、はじめから高度な技を駆使しちゃ、駄目よ。失神でもしたら、怖がるようになるわよ」

 半分面白そうに、半分真剣に告げた彼女に、集一は苦笑する。

「きみは、いつも僕と結架に火打石を向けて燃え上がらせようとしてくるけど、きみ自身のことは、どうなんだい?」

「わたし?」

 水分が多くなりすぎたリードを外し、べつに準備しておいたリードを口に含んで状態を探る集一に、マルガリータが怪訝な表情を向けた。

「僕も結架も、きみの幸せを願わずにはいられない。それは、ほかの皆も同じだと思う」

「わたしは幸せよ」

「そうだね。ただひとりと向きあわなければ」

「あら、そんなひと、いやしないわよ」

「そう?」

「誰のことを言ってるの、シューイチ」

 マルガリータが集一を睨む。しかし、彼は無垢そのものの笑顔で彼女の視線を跳ねかえす。怒りや疑義をあしらうのに、集一は慣れきっていた。幼いころから培ってきた、特技ともいえる。少年期には、それがうまくいかず、荒々しい日々を送っていたこともあるが、いまでは難無くそうできた。

「きみは誰に対しても余裕たっぷりなのに、フェゼリーゴにだけは、それがない。見ていれば、分かるよ」

 フェゼリーゴの名を出すと、マルガリータは顔をそむけた。表情を悟られたくないのだろう。

「だから、ごめん。マルガリータ」

「……なにが?」

「アンソニーとレーシェンから、二人が知るかぎりのことを聞き出したんだ」

 マルガリータが舌打ちをした。

 しかし、集一に隠した、その表情は柔らかく、哀しみと喜びと寂しさが複雑に入り混じっている。

「あのふたりったら、本当に、わたしが好きね」

 もれでた吐息のなかに、ありとあらゆる感情が混ざっているようで、集一は、注意深く耳を澄ます。彼女の微かな呟きひとつ、聞き逃さぬように。

 マルガリータは漸く集一に顔を向けた。そこには、不思議に晴れ晴れとした笑顔があった。

「そうね。わたしたちのような行き違いを、あなたたちには、起こしてほしくないわ。時間が経てば経つほど、自分でも、どうしていいのか分からない怒りをいだいて、顔を背けるようなことになってほしくない」

 集一の真剣さを目にしたマルガリータは、いままで張ってきた意地が、彼の前では無意味であることに気がついていた。

「最初から、これほど怒りがつづくと思ったわけじゃないの。彼の栄典を祝う気持ちも、勿論あった。でも、積み重なった不満や憤りは、想いを壊すばかりで、もとには戻れない。いまだって彼を愛しているし、ともに音楽を作ることでは信頼しているわ」

「それでも彼を前にすると、穏やかではいられない」

 ふう、と、マルガリータが吐息を放つ。

 ヴァイオリンをそっと卓上に置くと、弓を軽く振って、ピアノの傍まで近づいた。白い指が蓋を開け、流れるように鍵盤を弾く。最低音から最高音まで、均一に整った音が飛び散った。

「……冷静でいられないのよ。どれほど彼がわたしを軽んじたかを思い出して、感情が煮えたぎってしまうの」

 昏い光が、強く明るい緑の瞳に宿る。

 打ち消したくとも打ち消しきれない憾みは、フェゼリーゴに対してだけではないように見えた。これまで接してきた彼女に対する集一の先入観から来た印象かもしれなかったが。

「彼の亡くなった父親は、腕のいい時計職人でね。飾り時計を幾つか、遺しているの。それは見事なものよ。お伽噺や神話をモティーフに、陶器だったり木彫りだったりする仕掛け人形を組み合わせてあってね。決まった時間になると物語を語るの。人形たちが動くのよ。オルゴールに合わせてね。白鳥が羽ばたいたり、王子や王女が踊ったり」

 ピアノの前に座り、彼女は過去を見つめた。懐かしげに、そして、悲しげに。

「そのなかのひとつに、『白鳥の王子』があったの」

「『白鳥の王子』? 姫じゃなくてかい」

 マルガリータが目をしばたかせた。

「ああ、『白鳥の湖』とは違うわ。苦難を乗り越えて兄たちを助ける姫の童話よ」

 そう言って、彼女は説明しはじめる。

 それは、孤軍奮闘する姫の物語だった。

 幼い姫と、十一人の王子たちを残して、ある国の王妃が身罷った。

 ほどなくして国王は新しい王妃を迎えたが、それは恐ろしい魔女であった。

 魔女は姫を一年の約束で養女にだし、ある晩、王子たちに呪いの魔法をかける。王子たちは白鳥の姿となって追い立てられ、城から飛び去っていってしまった。

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