第4場 心の扉を敲く音(2)

「マルガリータは、喜んでくれたのでしょう」

「レーシェンにも、そう言っていたようだ」

 彼女は誰よりも彼の幸運を喜び、祝ってくれた。しかし、フェゼリーゴは迷った末に、移籍の話を断った。

「わたしにとっては、いまの楽団で彼女と、そして仲間たちと最高の音楽を目指すことのほうが大切だった」

 由緒ある、名門の楽団の首席奏者という栄誉。

 そこに旅立つほどの野心も、勇気もなかったのかもしれない。

 しかし、マルガリータは、その選択に憤激した。

 ──相応しい場に望まれる力を持ちながら、それを捨てるような愚かな真似をしたのは、自分を憐んだためか。その憐憫から、どれほど侮辱を感じるか、理解できないというのか?

「わたしは、そんなつもりではなかった」

「そうでしょうね。レーシェンも言っていたけれど、私にも、マルガリータが貴方の心情を理解しなかったとは思えないわ。でも、実際にこうなってしまったからには、どうしても彼女が許容できなかったのだと考えるしかないのだけど」

「レーシェンも知らないことがあるのだよ」

「え?」

 結架は目を見開いた。

 フェゼリーゴの穏やかな顔に、悲しみが張りついている。

「移籍を勧める楽団の理事と後見団体に、わたしの後任について彼女が就く可能性を探った。もし、彼女が首席奏者としてコンサート・ミストレスになれるのなら、あえてわたしが楽団にしがみつくのも好ましくないと思ったからだ」

「つまり……」

「楽団は、彼女を首席奏者とはしないと答えてきた」

「マルガリータは、それを知ってしまったの?」

 フェゼリーゴの吐息に苦悩が満ちる。

「売り言葉に買い言葉、というものだ」

 喧嘩になって、つい、暴露してしまったのだ。

 結架が自分の頬を両手で覆う。本当は、目を覆ってしまいたい気持ちだった。

「……貴方が、そんな無分別な発言をするなんて、信じられないわ。いつも理性的で、怜悧な貴方が」

 自嘲の微笑みが結架に応えた。

 マルガリータのこととなると、フェゼリーゴは、いつもの精緻さを保ちえない。ほかの者の言葉ならば歯牙にもかけないようなことでも、彼女から放たれたそれには感情的になってしまう。

「彼女が怒る理由としては、納得できたわ。ただ、三年ものあいだ、気持ちが和らがない理由が、何かあるのかしら」

 結架の双眸は清雅そのもので、どこまでも透明な泉の水そのもののようだ。みどりを帯びた茶色の瞳は、水底の水草を思わせる。

 フェゼリーゴは不思議に思った。

 何故、これほど打ちあけてしまうのか。

 明確な理由は説明できない。

 だが、結架の真摯な態度と澄みきった瞳に促されて、事実そのままを語ってしまう。気がついたときには、ずっと自分一人の胸におさめていたことまで明かしてしまっている。

「彼女は、自分が軽んじられるのが大嫌いなのだよ。でも、わたしは何度も彼女を傷つけてしまった。それは、ひとつひとつ語るほどのものでもない。ただ、忘れられないことがある」

「どんなこと?」

 それこそ、フェゼリーゴだけでなく、ゴンザーガ家全体に存在を軽く扱われたと思わせてしまったことだろう。

 フェゼリーゴは、彼の家族とマルガリータを対面させたときのことを結架に語った。そのときに起きたこと、のちに起きたこと、そのつながりを。

「……それは、貴方のせいではないけれど」

 聞き終わると、結架は、そう言った。

 フェゼリーゴは諦観をこめて答える。

「いや、わたしのせいだ。気づかせないようにすることもできただろうに」

「その場は収まっても、いずれ知られてしまえば同じことだわ。貴方が正直でいたのは、よかったと思うの。でも、このままでは、二人とも足踏みしたままだわ」

 結架は自分に向けても言を発した。

 ──前に進まなければ。

「……それで、わたしに何を望んでいるのかね?」

 そのとき結架は傷ついた表情をした。

「私が、ではないわ。貴方が望んでいるマルガリータとの未来は、どんなものなの?」

 フェゼリーゴが、はっとする。

 それは、ずっと目を背けてきたことだった。

「貴方は、いまでもマルガリータと結婚することを望んでいる?」

 彼は胸のうちで答えてから、結架の、ふたつの澄みきった泉を見つめて、口を開く。

「ああ。彼女もそうだったらと願っている」

 結架の泉に太陽が落ちたかのような輝きが生まれ、それは顔全体、やがては全身に広がった。心からの歓びを表した彼女は立ち上がり、フェゼリーゴの手をとる。

「だったら、お願い! 計画していることがあるの」

 フェゼリーゴは目を丸くして、彼女の興奮した声が語るのを聞いた。

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