第4場 心の扉を敲く音(1)
カヴァルリ家での演奏会で奏でる曲目や編曲形態について意見が聞きたいと集一が頼んでみると、マルガリータは嬉々として応じた。
劇場内に用意された練習室にやってきた彼女の手には、ヴァイオリン・ケースがある。それも集一の要望だった。原曲がヴァイオリンを伴うソナタなので、一度、集一の演奏を聴いてもらい、演奏曲目を絞りこむためと完成度を上げるために
「モーツァルトのソナタ、第二八番、ホ短調の第二楽章ですって? フルートでの編曲なら聞いたことがあるけど」
マルガリータの言葉に集一が首を縦に振る。
「あと、三五番と三七番、四〇番、四二番」
「音域は大丈夫?」
すると、集一は天井を見上げた。
「問題ないよ。編曲された楽譜自体はあるから。あとは、僕の技量にかかってくるのだけど。でも、結架の希望だからね。なんとかするしかないかな、と」
マルガリータが、にやりと笑った。
「それほど深い愛情があれば大丈夫でしょうよ」
集一は照れることもなく応える。
「どうだろう。ピアニスト時代の彼女のモーツァルトは、まるで作曲家本人が弾いているようだと言った評論家もいたほど、高評価だったからね。伴奏だけに徹しない、ピアノが重要視されている曲だからこそ、その真価が分かる」
集一が曲目のメモを手渡した。それを見ながら、マルガリータは真面目な表情になる。
「……選曲自体は、なかなかよ。ただ、ユイカは独奏もするのよね。これ、全曲だと五時間くらいかかるでしょう。あなたたち、夜を徹するつもりなの?」
集一の頬が赤らんだ。
「互いに演奏したい曲と、ロレンツォ卿からの要望曲を並べたら、こうなってしまって。勿論、ここから絞りこんでいくつもりだよ」
恥ずかしがる場面が違うのではなかろうか、と、マルガリータは肩を竦めた。結架への情愛の深さをはかられ、からかわれても、彼はまったく動じない。からかい甲斐のないこと、と、彼女は思った。とはいえ対しかたを変えるつもりはないが。
メモを眺めながら、しばらく思案する。
「そうね。四〇番は外して──三七番も──かしら」
「いや、三七番のフーガは、結架が是非とも演奏したいと言っているんだ。二八番と同じくらい、演りたいって」
「ああ、たしかに面白そうね。なんだか、わたしも聴きたくなってきたわ。いっそのこと、四二番を外す? 有名どころだけど、結構な時間があるわよ」
「それもいいけど、とりあえず完成度の高いものを残していこうかと。というわけで、見こみのありそうな曲を聴いてもらえるかな」
「それもそうね。で、ユイカは?」
「ロレンツォ卿の要望曲の殆どが、彼女にとって〝はじめまして〟なものだから、譜読みしたいってことで、午後から来るよ」
「あら、そう」
まるきりの嘘ではない。しかし、譜読みは昨夜に終えているはずだ。集一は、嘘を
今ごろ、結架はフェゼリーゴと問答を重ねていることだろう。その結果次第で、今日の夕食の味が変わってくる。集一は水に浸していたリードを取りだすと、水加減を確認するために口に咥えた。二、三度吹き鳴らしてみて音を聞く。やわらかい、よい音がした。これなら良い。
そして、軽快に最初の主題を吹き鳴らした。
そのころ。
結架は劇場の休憩用に用意された一室でフェゼリーゴと向き合って座っていた。
「どうしたのかね、ユイカ」
実際に向かい合ってみると、なんと切りだせばよいのか、なかなか思いつけない。そんな彼女の様子を見て、フェゼリーゴが微笑む。
「まだ、なにか心配かね」
「心配……」
それはそうなのだが、自分のことではない。
意を決して、
「フェゼリーゴ。私、心配しているのはマルガリータのことなの。あなたと、マルガリータのこと」
口火を切った。しかし、数秒間、沈黙が続いた。
「この前、私と集一がマルガリータと話していたときに、助け舟を出してくれたでしょう。あのときの彼女の怒りや悲しみが、あの場だけで生じたとは思えないの。だから、ごめんなさい」
「なにがだね?」
「アンソニーとレーシェンに、理由を知らないか、訊ねたの」
フェゼリーゴが吐息を発する。
出逢ったのは、一〇年ほど前のことだ。
数人の楽団員が引退をしたために新たに入団したヴァイオリニストの一人が、彼女だった。
初対面でも、その後の活動でも、特別な存在だと感じていたわけではない。いつから彼女を大切に想うようになったのか、はっきりと説明できない。
しかし、ともに音楽をつくり、さまざまな場所と時間を何年か共有していくなかで、徐々に親しくなっていった。
会話が増え、そのうち個人的な話題が多くを占めるようになり、連れ立って出かけるようになった。幾度か季節が巡り、気がついたときには、とても大切な、なくてはならない存在になっていたのだ。
向上心と自尊心の高い彼女は、いつか名のある楽団で首席奏者になるのが夢だとフェゼリーゴに打ち明け、彼はそれを応援した。もともと彼女が入団してきたときに楽団のコンサート・マスターに就任していた彼はマルガリータの目標ともなった。二人は休みの日にもヴァイオリンを手離さず、ともに研鑽を積んだ。
やがて、二人のあいだに〝結婚〟という言葉が浮かんだ。
それは、とても自然な成り行きだった。
しかし、問題が発生した。
フェゼリーゴに、国際的に著名な団体から、首席奏者の地位に就かないかと声がかかったのだ。高齢から引退を余儀なくされた前任者と、その団体の音楽監督が、後任に彼を望んだのである。それは、ヴァイオリニストにとって、非常に幸運な話だ。ふつうなら。
フェゼリーゴは迷った。
現在の楽団で首席奏者を務めることに、なんの不満も、不足もない。さらに、いまの仲間たちと最高の音楽を創り上げていけることが、なによりの喜びでもある。
そして、マルガリータだ。
楽団を移るということは、彼女と離れるということだ。しかも、彼女の夢を、横から攫うようなかたちにとられかねない。
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