第3場 珈琲の芳香と過去の譚たちのぼる

「おれの口からは、ちょっとなあ」

 アンソニーの第一声も、やはり予期したものだった。

 集一に呼び出された彼は、やってきたバールで結架の姿を見るなり用件が推測できたらしく、彼女がマルガリータとフェゼリーゴの名を出すと、苦笑めいた笑みを浮かべたのだった。そこに集一が言っていたとおりの雰囲気を感じとった結架が食い下がる。

「でも、アンソニー。マルガリータなのよ。このままで、いいのかしら」

 ふう、と、風のような溜息が漏れる。

「二人が仲違なかたがいし始めてから、かなり骨を折ったんだぜ。でも、駄目だった。仲違いと言っても、マルガリータが一方的に毛嫌いしてるというか、怒ってるというか」

「つまり、とても仲の良かった頃があるということだね」

「そして、フェゼリーゴが彼女を怒らせてしまったのね」

 二人の指摘に、アンソニーは動揺を見せた。

「ああ、ええと……まあ……」

「でも、なぜ? 彼女がそれほど怒るようなことって、よほどのことでしょう」

 アンソニーはエスプレッソを飲み干して退散しようとしたが、集一がさっと二杯目を注文してしまった。気の優しそうな店主が、酒精にも負けない芳醇な薫りを立ちのぼらせる小さなカップを運んでくる。あらかじめ席料に心付けもかなり渡してあるので、迷惑をかける心配はない。彼は愛想よい店主に、さらに心付けを渡した。

 それを見たアンソニーが観念したらしく、大きく息をく。

「ねえ、アンソニー。私と集一を結びつけてくれようとしたマルガリータをフェゼリーゴと結びつけようとしたからといって、彼女があらがうとしたら、あなた、どちらに協力できて?」

「──それは、ユイカとシューイチかしらね」

 頭上から降ってきた声に、三人の視線が上を向く。

「レーシェン」

 仕方ないわねと言いたげなため息とともに、レーシェンは夫の横に腰かけた。その手には既に湯気の上がるカップがある。

「シューイチから誘いがあったって出かけたときに、なんとなく、こういうことかとは思ったわ」

 彼女は、なにも気にしていなさげな口調で言った。

「わたしじゃ口を割らないと思ったのでしょうけど」

 結架と集一は、それを聞いて縮こまる。

「あの、ごめんなさい、レーシェン。あなたはマルガリータの親友だから、きっと話したくないだろうと思って」

「逆よ」

 レーシェンの答えは短かったが、夫であるアンソニーには察せられた。

 親友だから、黙って見ているのも限界がある。

「それで」

 灰色に近い、薄いブルーの瞳が結架と集一を見る。

「あなたたち、マルガリータとフェゼリーゴを仲良くさせたいの? いまのままでも、演奏には支障がないけど」

「勿論、そうね。でも、マルガリータにとって最高の状態とは思えないわ。彼女が演奏中にしか喜びをあらわさないなんて、フェゼリーゴにとっても幸せとはいえないのではないかしら?」

「もう三年、こんな関係が続いているのよ。そのあいだ、わたしたちも、いろいろと手を尽くしてきたの。だけど、彼女は変わらなかった。それでも?」

「僕たちにも、なにも変えられないかもしれない。それでも彼女が僕たちに干渉してきた理由があるとするなら、信じたいんだ。きっと、彼女も変わろうとしてくれるって」

 レーシェンがアンソニーと顔を見合わせる。

 集一は思い出していた。

 いつも、マルガリータは彼と結架が行き違うことのないよう心を配ってくれていた。惹かれ合う二人に気がついていた彼女は、迷うな、進め、時間を無駄にするなと言わんばかりに焚きつけた。それは、自分の願いにも通じているのかもしれない。

 素直な心で相手に向き合えれば、想いは通じる。

 ──素直になって。

 ──向き合って。

 そして、想いが通じることを……。

「……わかったわ。なにがあったのか、話すわ。勿論、わたしが知っているかぎりのことでしかないけど」

 結架の表情が明るくなる。

「充分よ。ありがとう、レーシェン」

 集一も続けて、

「本当に、ありがとう」

 レーシェンの唇に微笑が浮かんだ。

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