第2場 水中の星
選曲。ロレンツォとの打ち合わせ。楽譜の調整。練習。
はじめの四日間は、あっという間に過ぎ去ってしまった。
その初日である、マルガリータの誘いで食事をした次の日。結架は宣言どおりに集一に尋ねた。
「マルガリータのお話って、どんなでしたの?」
すると、彼はすこし硬い表情をした。
「……互いに心を開いたのか、と」
「え──」
結架は言葉に詰まった。
じっと見つめてくる集一の視線に緊張する。
まだ話していないことが、ぐるぐると胸のなかに渦巻いた。
──だめ。
「貴方は、どう思って?」
かろうじて明るい声をつくった。
「完全に、となるには、早すぎる。心を開くには信頼が必要だけれど、それは一朝一夕で築かれるものじゃない」
結架は驚き、そして焦った。
「信じているわ。私、あなたを信じているのよ」
懸命な声と表情を前にして、集一に微笑みが戻る。
「わかっているよ。僕も きみを信じている。ただ、だから一度にすべてを さらけだすかというと、そういうわけじゃない。信じているからこそ、簡単に委ねるべきでないと、そう感じることもあるんじゃないかな。たとえば、将来のこととか」
なんとなく彼の言いたいことを理解した結架は、たしかに、と納得した。
「そうね。マルガリータなら、すぐに すべてを打ち明けられるのかもしれないけれど」
すると、集一が小さく笑った。
「ところが彼女も、完全に心を開くなんて無理だって断言したよ。まず、あり得ないって」
「……そうなの?」
「彼女のフェゼリーゴへの態度が、なにより物語っているんじゃないかな」
結架のまばたきが早くなった。
「あなたも、二人には何かあるって思うのかしら?」
集一は再び笑った。
「あれじゃあ、何もないと思う人のほうが不思議だよ」
マルガリータが過剰なほどに心を閉ざしている相手。
あからさまに敵意を向けている、理由。
「……レーシェンなら、知っているかしら」
「知っていても、話してくれそうにないけど」
「アンソニーは、どうかしら」
「知らなくても、話をしたがってくれそうだね」
その言葉には結架も笑ってしまった。
「じゃあ、アンソニーから、説得していきましょう。私、どうしてもマルガリータがフェゼリーゴに心を開かないなんて納得できないの。対面すらしていないレストランの接客係に、将来の目標を語らせるひとなのよ」
それでも、すべての人間と仲よくできるわけではない。
しかし、集一も結架と同じように思った。
あの二人が合奏で見せる息の合ったボウイング。混ざりあって、どちらがどちらか判じにくいほどの音色。あれは、反目している者同士の奏でる音楽では決してない。
彼女は気づいているのだろうか。さまざまに指示を出し、楽団を統率しているフェゼリーゴに向けられる、深い信頼と愛情のこもった自分の眼差しに。
集一は譜面を並べた机の前から立ち上がり、反対側に座る結架の傍に近づいた。
「あの二人の響きは完全に同調しているわ。互いの発する大きな和音が調和して、ひとつの和音に聞こえるほど」
「大きな協和音?」
白い手をとると、結架はぎゅっと力をこめた。
「なのに、水の中にもぐって隠れるように、いつもは音を発さないでいるの。光までは隠せないのに」
結架の比喩に、集一は一瞬、戸惑った。だが、彼女の言いたいことは解るような気がした。
「まるで水中の星だって?」
「そうよ」
結架は痛みを堪えるように、顔を歪める。
「星々は地上から空を見上げてこそ、美しいのに。愛のない音楽が響きわたりっこないのに。水の中にいたんじゃ、だめなのよ」
「……きみは経験者かい?」
結架の顔が青褪めた。しかし、すぐに痛ましげな微笑が、その色を隠そうとした。
「私は、あなたが引き上げてくれたから」
立ち上がり、集一の首筋に顔を
「私は大丈夫。こんなに幸せだもの。マルガリータにも、幸せでいてほしい。あの敵意は本意じゃないわ。だって、あんなに悲しい顔をしたのだもの」
ふたりと会話していたときに現れたフェゼリーゴに見せた、マルガリータの激しい感情。それに対したフェゼリーゴの優しい瞳。怒りから悲しみへ、憎しみから苦しみへ、一気に変貌した彼女の姿。あれは、愛情があればこそではなかろうか。
「……きみにピアノを弾いてもらった、数時間前だったね」
「ええ」
あのときフェゼリーゴは、マルガリータが同じ楽団に入団してきたときから、よく知っている仲だと言っていた。そのすこしまえから、彼らの様子を見て、集一は気をつけなければならないと思っていたのだ。
マルガリータは、フェゼリーゴとの間に傷を負っている。
そして、そう示すものが何もなくとも、もしかしたら、フェゼリーゴのほうも。
「あのときの彼女は、たしかに痛々しかった気がするよ。なにかに耐えているように見えた」
「ええ。望むものと、おしとどめるものに、左右から引き裂かれるような」
心が欲するものに、理性が拒む。
惹かれてやまないものを、否定する。
それは、どんな苦しみだろう。
結架は肩を抱く集一の腕に痛みを宥められるのを感じた。優しく、それでいて力強い。
自分はその苦しみから解放された。マルガリータが力を貸してくれたおかげでもある。
今度は自分が力になりたかった。
愛する者と見上げる星の美しさに胸震わせる。そんな幸福が彼女の心にも広がるように。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます