第1場 食卓の音楽家たち(2)

「──ところで、時間は大丈夫かい?」

 耐えきれずに話題を変える。

 マルガリータは集一に人の悪い笑みを向けたが、それ以上は微妙な話題を続けなかった。

「ええ、そうね。入りましょうか」

「そうしてください」

 間髪入れずに鞍木が答える。集一も結架の腕をとって、大きく踏み出した。

 マルガリータが店の入り口で出迎える若い店員に名前を告げる。すると、すぐに彼の奥から穏やかな声が聞こえた。

「ようこそ、フランソワーズさま。お待ちいたしておりました」

 驚いたことに、フランス語だ。

 隙のない身なりと立ち振る舞いは、給仕長だろうか。そう思ったが、慎ましげでありつつも威厳ある雰囲気は、支配人と言われても納得できる。彼らは不躾にならない程度に観察した。ここでフランス語を用いたということの意味を考えると、この男性に些かの興味を感じる。

 にこやかな輝く笑顔でマルガリータが女王然と答えた。

「ありがとう。素敵な晩餐になりそうで、楽しみだわ」

「勿論、ご堪能くださいませ。こちらへどうぞ」

 優美で雅やかなアンティークの調度品が、絶妙な配置で特別な空間を造り出している。飲食店なので香りの強い生花はなく、花粉が飛ばないよう処理もされているものの、至るところに大小さまざまな花瓶や花鉢が工夫を凝らして飾られていた。

 上階の窓辺の席を用意していると告げる彼について四人で階段を上がる。段板も蹴込み板も黒大理石のようだったが、敷かれた厚い絨毯が靴音を消し、踵への衝撃も和らげてくれた。

 階上も室礼は豪華の一言に尽きた。

 現れた大きな窓のカーテンは開けられており、外の景色が額縁を思わせる装飾の窓枠のなかに見えるさまは、さながら一枚の名画のようだった。街灯の明かりで、白いコンソラータ聖所記念堂の外壁が赤々と染まっている。美しさに圧倒された結架の感嘆の息を聴きとって、三人が微笑む。

「本日はフィナンツィエーラをご所望ということでコースをご用意いたしておりますが、なにかほかに、ご希望はございますでしょうか」

 マルガリータは渡されたリストに目を通す。ひととおり見て鞍木に手渡した。彼もざっと見ると、頷いた。結架の口にするものに対して彼に確認すれば事足りるのだということをごく自然に認識しているマルガリータに気づき、集一の微笑に決意が色づく。

「このままがいいわ。ああ、ワイン・リストは必要ないから、『リゼルヴァ』を、お願いね」

「かしこまりました」

 マルガリータが さりげない口調の英語で告げると、以降の彼の言葉も英語に変わった。四人の共通語を認識したのだ。

 ピエモンテ州で評判の赤ワインを注文したマルガリータは、ご満悦の様相で一同を見つめた。

 給仕が離れていき、身を固くしていた鞍木の緊張が解れるのを見てとると、彼女は小さく笑い声をたてる。

「あの給仕、英語だけでなく、フランス語とドイツ語、それにスペイン語も堪能なのだそうよ。いまは日本語を勉強中なのですって。日本映画を原語で理解したいらしいの」

「お知り合いですか?」

「いいえ。予約の電話をしたときに話しこんだだけ」

 どうやったら、そんなことになるのか。

 三人は首を傾げたが、マルガリータにとってはなんでもないことのようだ。彼女は本当に人懐こい子猫のように人の懐へ入りこむ。

「そうそう。聞いたわよ、シューイチ、ユイカ」

 きらきらとした瞳に見つめられて、結架は反射的に怯んだ。しかし、話題は警戒したものとは違っていた。

「カヴァルリ家で演奏会をするのですって? オーボエとピアノで」

「ああ……そのこと。ええ。でも、誰からお聞きになったの? まだ詳細が決まっていないのだもの。カッラッチさんではないのでしょう?」

「アマーリア──ああ、カヴァルリ家と親しいプレッティ家の末娘よ。親戚でもあって、いまカヴァルリ家に滞在しているそうなの。アマチュア・ヴァイオリニストで、わたしの同門だったのよ。今回の演奏会に、わたしが参加するのだと知って、ミラーノから来てくれたみたい。まあ、彼女の仕事も込みなのだけど」

 明るい声が続ける。

「カヴァルリ家の出版社で音楽雑誌の編集者をしていてね。わたしたちの演奏会の取材も兼ねているらしいわ。シューイチは、トリーノに来る前に、ローマでフェゼリーゴと一緒にインタヴューを受けたでしょう。記者じゃないんだから同席する必要はないのに、彼女ったら、あなたに会ってみたかったんですって」

 集一は記憶を手繰り寄せる。すんなり思い出せた愉快な人柄と会話に忍び笑いをもらす。

「ああ──あの、ヴィヴァルディ礼賛家の?」

 マルガリータが頷く。

「そうよ。長女の名前をアントーニアにした、彼女。自慢したでしょう? 巻き毛もそっくりでしょって言って、写真を見せなかった?」

 その声色と輝く瞳で問われて、集一は思い出し笑いまじりに返答をした。

「うん。見せてもらったよ、インタヴューのあとに。きみの親戚だと聞いたほうが納得できるくらい、明朗快活な女性だった」

「いやだ。あんな変わり者じゃないわよ、わたし。なにしろ自分にアプローチしてきた男性の名前がアレッサンドロ・コレッリだと知って、猛烈に逆アプローチした子なのよ。逃してなるものかって勢いで。息子ができたらアルカンジェロに名づけるって興奮してたわね」

 アルカンジェロ・コレッリとは、ヴィヴァルディのヴァイオリン運弓法においての師匠である。また、作曲家でもあり、ヴァイオリン・ソナタ、ニ短調≪ラ・フォリア≫や、合奏協奏曲ト短調≪クリスマス協奏曲≫が有名である。

「それは、それは。相当なヴィヴァルディ愛好家ですね」

 鞍木も苦笑するほどのエピソードだった。

 しかし、結架の両の瞳は輝いている。

「あら、すてきだわ。そのかたとは、どうなったの?」

「現在の夫よ。つまり、彼女の娘は、アントーニア・コレッリという微妙な名前なわけ」

「まあ! 運命的ね! 憧れるわ」

 今度はマルガリータと鞍木、集一が顔を見合わせあった。

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