第四幕
第1場 食卓の音楽家たち(1)
トリーノは、かつてイタリアが統一を果たしたとき、国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ二世の所領であり、国の首都であった。国王の一族、サヴォイア家の王宮群は世界遺産にも登録される壮麗さを誇る。
Vittorio Emanuele Re d’Italia──イタリアの国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ──の四つの頭文字をとると、
そのサヴォイア家の料理長だったマーリオ・フロッラーリが引退後に息子と開いたのが、『リストランテ・レオパルディ』である。
約束の時間ちょうど。結架が鞍木に伴われて店の前に来ると、優しい響きの声が彼女の名を呼んだ。
「ユイカ。こっちよ」
「マルガリータ。集一」
結架は安堵の息をつく。
どうやらマルガリータとの会談を終えた集一も同席するらしい。
「時間ぴったりね。ミスター・クラキ、ありがとう」
「いえ、仕事ですからね」
肩をすくめた鞍木の腕に、マルガリータがさっと腕を絡めた。ぎょっとした一同の前で、涼やかに彼女は笑う。
「これは仕事ではないけど、わたしのエスコート役を務めてくださる? 四人で予約をしてあるのよ」
それは集一も知らなかったため、彼は瞠目したが、なるほど、とも思った。
こうしたいかにも客を選ぶであろう高級店で同伴者もなく食事をする女性がいるとしたら、まず例外なく、それなりの年齢を重ねている。そして、一見して富裕な婦人であると判るものだ。誰もが気軽に食事を楽しめることを望むのであれば、そういった場所がちゃんとある。ただ、そうした場所では、繊細な配慮を必要とする会話は出来ない。ハイヒールで登山に挑む者はいないし、サンダルでワルツを踊る者もいない。そうした区別が厳格なまでに必要な世界を、集一は厭というほど
「ええと、光栄です」
鞍木も全く予想していなかったわけではなかったのか、ネクタイまで普段よりも上等な品を身につけている。それでも、マルガリータの顔が近づけられて動揺したらしい彼の英語は、平素より発音が拙い。結架が可笑しそうに笑った。
「そういうことでしたのね。私、貴女と二人で食事するのかと思ってしまっていたわ」
「それは、また、ゆっくりね。今度のわたしの誕生日にでも」
片目をつぶって歌うような声で返し、マルガリータが鞍木の腕を軽く引く。二週間後、本番三日前が彼女の誕生日だ。結架のマネージャーらしく、その日に予約すべき店を探しておかなくてはと思いながら、彼は腕を引かれるままに足を進めた。
「さあ、入りましょう。ここの料理は素晴らしいって聞いたの。とくに、このあたりの郷土料理であるフィナンツィエーラは絶品だっていう話よ」
「まあ」
結架が目を丸くした。
フィナンツィエーラはピエモンテ州の伝統的な料理で、なかなかに手間のかかる品である。具材となる肉を部位ごとにソテーしたり、ブロード──
イタリア語で『Finanza』という単語がある。意味は財務とか、金融である。そして、『フィナンツィエーラ』という言葉自体は、『フロックコート』という意味だ。一八〇〇年代に銀行家や金融業者などのフロックコートを着用していた階級の者が好んでよく食べていた料理だからだといわれる。作られるようになった初期のころは肉の残りなどを煮込んだ農民の保存食で、それこそ内臓だけでなく睾丸や骨髄までをも使った、本来、あまり上品な料理ではないとされていたのだが……。
「鶏冠やレバー、胸腺肉、仔牛の脳、ポルチーニ茸の煮込みでしょう。最近では材料が手に入りづらくなってしまって、あまり見かけないと聞いているけれど」
「そう。ピエモンテは牛肉で有名だけど、鶏肉もなかなかのものなのよね。キノコは言うに及ばず、だわ。トリュフのタヤリンも美味しいそうよ!」
浮き浮きと語るマルガリータが、ふと、その視線を結架の隣に飛ばした。
「あら、シューイチ。なんだか浮かない顔つきね。どうしたの?」
じつは彼は、『ツバキ』での一件を思い出していた。
正直に告げると、マルガリータは楽しげに、
「そういえば、そうね! 小さいころから食べなれているものだと、気持ち悪いと思わなくなるみたい。でも、そうね。ある部分については、男性は特に抵抗があるかもしれないわねぇ。ねえ、ユイカ」
揶揄う目つきを向けられて、結架は困ったように はにかむ。しかし、しっかりと答えた。
「それほど自己の性別にとって譲れない矜恃の象徴だということではないかしら。女性にとっての胸が特別であるのと同じね」
「ああ、なんとなく、豊かなほうが母乳がふんだんに出そうだものね。執着するのも道理だわ。なるほど。睾丸も同じなら、大きいほうが多くの精子を効率的に発射できそうね。種の存続という点で、そうした意味から大事に思うのも、無理ないわ」
男性二人は思わず顔を見合わせた。とくに鞍木は、驚きに声も出ない。結架が、こうした話題に顔色を変えることなく応えるとは。
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