第9場 心の扉(1)

 明くる日の朝。マルガリータとの夕食に同席するようはたらきかけると言った集一に、結架はかぶりを振った。

「もし、彼女が私と二人で食事をするつもりなのだとしたら、それには理由わけがあると思うの」

 マルガリータが二人の仲を揶揄うような言動をしたとき、集一は、今後は自分が一人で対応すると宣言した。しかし、いまは状況が違う。もしかしたら誡告を受けるのかもしれないし、報告を求められるのかもしれない。

「マルガリータは、いつも私に手を差しのべてくれたわ。だから、きちんと応えたいのよ」

 結架の言葉に肯いて、集一は彼女と別れた。

「じゃあ、もしかしたら、あとで」

「ええ」

 離れかけた集一の腕に、結架がそっと触れた。

「どうしたんだい」

「あの──」

 僅かに結架は言いよどんだ。

「いまからマルガリータと何を話したか、あとで聞かせてもらいたいと思うのだけれど、いけないわよね」

 思わず集一が笑う。

「僕も、きみがマルガリータと何を話したか、明日にでも訊いてしまうよ。僕らが情報共有しようとすることは彼女もお見通しだと思う」

 硬くなっていた結架の表情が、みるみる和らぎ、明るく晴れた。

「そうね。ありがとう」

 もう一度、やわらかい手をぎゅっと握る。彼女の体温を覚えたところで集一はそれを離した。

 そして、見送りの言葉を発した結架に手をあげてから、マルガリータの待つ『カッフェ・チウッカ』へ向かった。

 劇場を出て建物沿いに歩いていく。左側には、かつて王妃たちが暮らしていたマダーマ宮殿。現在は市立古典美術館として二〇〇五年の開館をめざし、改装中である。

 マダーマ宮殿の前、カステッロ広場でパラッツォ・チッタ通りに入っていく。パステルカラーの外壁をした優美な教会の横を通り過ぎると店舗が並ぶ。ひとつ隣の通りは衣料品店ブティックが多いが、なかには大きな薬局ファルマチーア冷菓店ジェラテリーア喫茶店兼酒場バールもある。こちらの通りは飲食店が多い。色とりどりの広告や国旗が飾られ、鮮やかな光景だ。レアーレ王宮に近いため、人通りも多く賑やかである。集一にはイタリア語を解する素養がないので、聞こえてくるのは音楽的な響きだけで会話ではないが、人々から発される言葉は美しく聴こえた。

 しばらく歩くとチッタ宮殿が見えてくる。

 広場を備えた壮麗な建物の前で、ミラーノ通りに進む。

 一見して教会だと判る茶色い建物の正面は、ミサに参列するのだろう信徒たちで混雑している。集一は腕時計で時刻を確認すると、左に曲がって図書館のほうへ進路を変えた。そうしてオベリスクの建つサヴォイア広場まで、そのまま進んでいく。二一メートルもの高さで、すっくと立った姿は空を貫きそうである。一八五三年に建てられたそうで、「法のもとにおいて全人民は平等なり」という言葉が刻まれているそうだ。広場の外周を歩いたので文字は確認できなかったが、目にしたとしても読めないので、目的地に着くことを優先させて足を止めなかった。コンソラータ通りに入れば、目指す場所は近い。

 鐘楼の建造は一一世紀ごろ。聖堂のある建物は一七世紀に建てられたという。聖堂わきには高い円柱が聳え、頂きに聖母子が立っている。その視線の先。カッフェ・チウッカと店名を掲げた両開きの扉が目に入った。

 自動ドアであるかのように扉が開いて、なかから年配の男性が出てきた。入れ替わりに店内に入った瞬間、聞きなれた艶のある響きをした女性の声が飛んできて、視線を向ける。輝くような美貌が微笑めば誰もが恍惚とするのが普通だが、このときの彼女の笑みは動物的なものに見え、集一は安心するどころか、背骨が軋むような緊張を覚えた。

「シューイチ」

「お待たせしてしまって、申し訳ない」

「いいのよ。わたしが早く来すぎただけ」

 蜂蜜色の髪を揺らし、手振りでマルガリータが座るようにと促す。集一は内心を見事なほど隠しつつ、イタリアン・アンティークの少し硬い座面に腰を下ろした。

「それで」

 彼女が快活に言った。

「なにを注文する?」

 一瞬、集一は頬を緩ませた。

「リモナータを」

 望むべくんばマーガレッツ・ホープを飲みたいと思ったが、この店には、ありそうもない。紅茶党には寂しいかぎりである。

 男性店員がメモも手にせず注文をとって、下がっていった。

「それにしても──」

 明るい響きに、微かな苦慮が混ざる。

 集一はマルガリータの眼を見つめ返した。エメラルドに入ったインクルージョンのように、真摯な光のなかに浮かぶ小さな憤りと混乱が見えたように思えたが、それは声から聴きとったものだったかもしれない。

「貴方は謎めいたひとね。料亭リョーテイの特別室に案内されたり、財団の長一族と懇意だったり」

 運ばれてきたグラスを持ち上げると、細かな泡が弾け、レモンの香りが昇ってきた。

「カヴァルリ家と親しいわけではないですよ。欧州でいくつかの競演会に挑戦していたときの縁で、ジャーコモと知り合ったんです。より正確に言えば、ローマの国際コンクールで優勝したとき、お声をかけられて、話をしました。そして、彼の支援の申し出を有り難く受けたわけです」

 さらりと語ったが、内容はすごいものだ。

「充分、ご立派だわよ」

 マルガリータが声を出さずに笑う。

「なるほどね。それで、こんな特別待遇の演奏会を開催してもらえるというわけ。中止にならないのも当然なのね。まあ、中止にせざるを得ないほどの騒ぎではなかったのも幸いしたけど」

「そのことですが、本当に──」

「はい、そこまで」

 マルガリータが目を閉じて、ぴしゃりと言った。

「もう謝るのはおやめなさいな。そんな必要、ないんだから。わたしはね、シューイチ。個人的には良かったとすら思っているのよ。貴方とユイカの仲が進展したみたいで、ね」

 そして目を開き、にっこりと微笑んだ。なんの隔意も、わだかまりもなく。

「心配しないで。ユイカに詳しく訊くようなことをするつもりはないわ。ただ、貴方には確認しておきたい。彼女は、貴方に、心を開いたのよね?」

 

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