第8場 曇る心にさしこむ光
ジャーコモ・デ・カヴァルリとの会談で得たものの重みを感じながら部屋を出た集一は、廊下の向こうからミレイチェが来るのを見て我に返った。
「ミスター・カッラッチ? 結架と一緒に先に戻られたと思っていました」
人懐こい顔に笑みが浮かぶ。
「そうなんだが、ミス・フランソワーズからの伝言があってね」
「ああ、彼女は一刻も待ってくれませんね」
思わず苦笑した集一だったが、その声にも表情にも、それを忌避する様子はない。マルガリータが結架を妹のように扱うのは、いまに始まったことではないのだ。
ミレイチェが笑いながら頷く。
「でも、その前に。
昨夜のことは、ミス・オリハシが何もかも皆に説明したので、事情は全員が承知したよ。だから、君に意見する者はいないだろう。ミスター・ゴンザーガと、ミスター・マジーナを除いて」
集一の眉が下がる。
「ええ、覚悟はしています」
ミレイチェの瞳が優しく和んだ。日本人に多い美質だと常々思っていたが、集一の、周囲の人々の心を察して慮る謙虚さは、敬意に値する。それでいながら、ただ忍従するだけではない。主義主張も、きちんと持っている。それは決して強引な発信ではないので、ミレイチェは好ましく思っていた。
「安心したよ。それから、ミス・フランソワーズの伝言だが」
「はい」
一瞬、ミレイチェは、にやりと笑った。
「明日の午後五時、コンソラータ聖所記念堂の近くにある『カッフェ・チウッカ』に来るように、と」
集一がまばたきを止める。
ご召喚、というわけか──と思いながら、集一は、ぱちぱちと四分の二拍子でまばたきをしてから答えた。
「つつしんで」
ミレイチェの笑みに同情めいたものが含まれる。ただ、それは集一だけに向けられてはいない。マルガリータの審問を受けるのは、彼だけではないのだ。
頷いて、ミレイチェは次の言葉を発する。
「それから、ミス・オリハシに、『リストランテ・レオパルディ』へ明日の八時に来るようにと伝えてくれ。『カッフェ・チウッカ』の向かいにある店だ」
それを聞くと、集一のまばたきのテンポが八分の六拍子を刻んだ。
「当然、遅い時間だから、くれぐれもコースケが送ってくるように、とのことだ」
つまりは集一と話した後で結架も交えて面談がしたいということだろうか。あるいは、集一は帰らせるつもりでいるのか。
いずれにせよ。
結架も自分も、もう、大人なのだが。
集一は反射的に思ったものの、口には出さなかった。
すくなくとも結架は大人と呼ぶには頼りなげだ。それは、彼女の庇護者でもある鞍木の態度からも明白なことである。ほぼ全ての場に付き添い、事務的な作業の総てを担い、生活の殆どの場面で彼女を助けている。ただし、結架が無能なわけではない。ただただ、無防備で、危うげなのだ。
集一は、もう何度も自らに問うてきたことを思った。
──本当に、自分は天使を護る騎士を名乗るに相応しい者だろうか?
たとえば鞍木が呼吸するようにこなしている諸々の世話を現在の集一が受け持ったとして、どれだけそつなく処せるだろう。とても彼と同じ水準とはいくまい。
──それでも。
かつての恩師に授かった言葉を思い出す。
──期待しているよ。きみなら大丈夫だろう。
「あまり畏まる必要はない。ミスター・ゴンザーガからも、彼女に過度な干渉とならないよう注意してほしいと要請してもらってあるから。ミス・オリハシの人柄を知らなければ、もっと強く止めるところだがね」
それについて集一は言葉で答えるのを差し控えた。ただ薄い苦笑を浮かべて、頷いて見せる。
「では、皆のところに戻るとしようか。明日から六日間、ミス・オリハシと二重奏の打ち合わせと編曲、練習だろう。急に決まったことで慌ただしいだろうが、しっかり頼むよ。うちの代理店はカヴァルリ家に多大な恩義がある。必要なものがあれば私が用意しよう。まあ、コースケもいるから、どちらに声をかけてもらっても構わない」
「はい、ありがとうございます」
ミレイチェは集一の肩を軽く叩いて激励しながら、大きく頷いた。
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