第7場 幸福な計画(5)

「夫婦の秘め事を話題にあげる男性が多いのは、妻がそうした語らいを許容するのが自分だけだと思うことで充足感を得られるからじゃないかな。自分だけに許されている、自分だけが特別なのだと思うのが幸福に感じられるのは、そうした話題に限られたことじゃないけどね。女性側からも、そういうものはあるだろうし、そもそも二人だけの秘密は会話でも分かち合いたいものだろうし」

 本当は、もっと具体的に話題にする必要性を重んじる理由を思いついていたものの、集一はそこまで説明するのは避けた。愛の営みに対して結架が要望を訴えてくるなど、いまはとても想像できない。

 無慈悲なやりかたで伴侶を次から次へと変えたドビュッシーや、異性愛がなく正常な夫婦関係を持てなくてもよいならと条件を出して結婚に同意したチャイコフスキーなど、音楽家の人生を調べれば、当然ながら性愛についても知ることになる。また、フランス留学が決まったとき、巷間伝えるところによる国民性を不安視した叔母により、無知こそ最悪の危険であるとして、『然るべき情報』を授けられた。

 医学辞典に記載されている内容と、ルイ一五世ごろのフランス宮廷を題材にした人間文化としての性交渉という、いささか等身大の現実とは乖離を感じさせるものの、それなりに有用な知識は得ている。しかし、当然ながら経験は皆無で、実際的な方向に知識が進むことはなかった。

 免疫が低い、と、マルガリータに言われたとおりだ。

「そうね。トロイア戦争をギリシャ軍の軍師として戦ったオデュッセウスが帰ってきたとき、一〇年もの漂流期間で容貌が別人のようになっていた彼を、妻の王妃は、夫婦しか知りえない閨の特徴を言い当てたことで本人と確信したというほどだわ。夫婦の絆ね」

 結架の解釈はまるきり間違いではないものの、ずれているような気がしたが、集一は曖昧に微笑んだ。

「ええと……とにかく楽譜が手に入ったらアレンジをしないといけないし……明後日にはロレンツォ卿からの具体的な曲目の要望が出るかもしれないし、とりあえず、この六日間で、ある程度は仕上げないと」

「忙しくなったわね。もともとの予定では、お留守番組の私たちは観光でもしていればいいと聞いていたけれど」

「ああ、すごく申し訳ない気持ちだよ」

 ため息とともに詫びると、結架が見開いた目で見上げてきた。

「あら、なぜ? 私は嬉しいわ。それに、大変なのは、あなたのほうでしょう。リードは大丈夫?」

 集一は即答しなかった。

 まさしく、一番の問題は、そこにある。

 オーボエはリードという発音体なしには鳴らない。これがまた非常に繊細な代物で、製作者の技術もさることながら、材料の質にも大きく左右されてしまう。おまけに消耗品ときている。せっかく最高の出来だと思ったリードでも永遠には使えない。かといって、出来たてを使わずに本番だけで使おうとしても、うまく鳴らない。そこで、厳選したリードが本番において最高の状態を迎えられるよう、日々、交代で使いながら様子を見るのだ。

 集一の場合、作曲家、曲目、独奏部分の時間配分、編成などによってリードを選別している。一日のなかで、場合によっては楽章によってリードを付け替えているのを何度も見てきた結架に、そうしたことは話していた。その話題のときに、ともにいたアンソニーなどは、こう言ったものだ。「オーボイストは、リードの話になると目の色が変わる」

 そのこだわりは集一もかなりのもので、昔は母が製作を手伝ってくれていたものの、あるとき、あまりにも多くの事細かな注文を並べたせいで、さすがにお手上げだと言われてしまった。

 葦材の硬さと厚みについて。チューブに巻く糸の回数と巻きの強さ。折り目を切断する位置。それら凡てに一切の妥協のない強硬な要求に応えられる人間は、同じオーボエ奏者でも、そうそういないほどだったのだ。

 モーツァルト用のリードは、常に充分なストックを用意しておくよう気をつけている。しかし、オーストリアの二都市で連続してのコンサートで演奏することを考えれば、少々心許ない。さらに、はじめて吹く曲が近々ある以上、これまでのリードと同じでいいとは限らない。

「うん。今回、イタリア北部であったのが幸いだ……」

 独語めいた呟きに、結架は首を傾げる。

 しかし、集一がその意味を説明することはなかった。

「ああ」

 不意に思い出したという声を上げて、彼は結架に問いかけた。

「明日の夜、何か予定があるかい?」

 結架は面食らったが、すぐに答えた。

「いいえ。とくに何もないわ」

 安堵の顔つきになった集一を、不思議そうに見る。

「明日は、夜まで練習をするほうがいいのかしら」

「いや、実はカッラッチさんからマルガリータのきみへの伝言を預かっていて。明日の夜八時に、鞍木さんに送ってもらって、『リストランテ・レオパルディ』へ来てほしいのだそうだよ」

 結架が数秒間、まばたきを忘れた。

「あなたは一緒ではないの?」

 その質問には、集一は答えることが出来ない。そのときマルガリータが彼を同席させるつもりでいるのかどうか、聞かされていないのだ。

 正直に、彼は話した。

「マルガリータは今までもよく食事に誘ってくれているけれど……誰かを介してなんて初めてだわ……。カッラッチさんも同席なさるのかしら」

「それはないと思うよ。カルミレッリの提案した今夜の食事会を、僕たちの動揺を察してくれたフェゼリーゴが延期にしようと決めてくれただろう。それでマルガリータはカルミレッリに配慮して、目立たないよう、カッラッチさんを通じて誘ってくれたのではないかな。まあ、きみと、ゆっくり過ごしたいのかもしれないよ」

 繋いだ手に力をこめると、結架の指にも力が入った。

「そうね。せっかくのカルミレッリの素敵な提案を台無しにしてしまったわ。でも、たしかに今夜、皆で食事会という気持ちにはなれないの。騒ぎを引き起こしてしまったのに、楽しい場所に出席するなんて、けしからぬふるまいですもの」

 繋いだまま結架の手を持ち上げて、集一が唇をあてた。それを見た彼女の頬が色づく。ただ、その表情の曇りは晴れない。それは、集一も同じだったが。

「僕も、そう思うよ。いくら水に流してもらえたとはいえ、やっぱり、慎むべきだ。演奏会の成功と、ロレンツォ卿のご要望を叶えることに集中したほうがいい」

 真剣な響きの声に、結架が何度も頷く。

「ええ。マルガリータのことだから、きっと、私のために誘ってくれたのだと思うわ。録音と演奏会に支障があってはいけないものね」

「支障をきたしそう?」

 やわらかく握られた手に彼の吐息があたり、結架の胸が波うつ。

「いいえ」

 声は少しかすれていた。

 集一の片腕を捕まえたまま額を彼の胸に預けると、もう片方の腕が背中にまわる。やさしいマグノリアの香りがして、途端に結架の呼吸は安らいだ。このぬくもりと香りがあれば、容易たやすく安息が手に入る。

「不思議なくらい、あなたがいれば、自信に漲るわ。指の調子が良くて打鍵を誤るなんて絶対にしないと思えるときみたいに、心が静かになるの。すべての音が聞こえてくる感じにね。それでいて、響きが協和しているの。だから、とても多くの音があるのに、心地いいわ」

 そこまで言って、結架は顔をしかめ、不安げに集一を見上げた。

「言っている意味、わかってもらえるかしら」

 集一は小さな声で笑った。

「そうだね。僕の持つものと似ているかもしれない。根拠のない全能感」

 目を見開いた結架の瞳いっぱいに、集一の笑顔が映る。

「きみといると、自分が絶大な力を持っているように思える。誰にも負けない。挫けない。そんな気がしてくる」

 集一の指に絡んだ結架の指に、力がこもった。

「……ありがとう」

 上気した頬の白さを探すように集一は顔を近づけ、その唇を寄せた。

「僕のほうこそ」

 そうとわからないほど細く開いた扉の横、壁に背中をつけて立っていた鞍木は、閉じていた瞼を上げた。そして、音もなく壁から離れ、静かにその場を去った。胸のなかで震える恐れを打ち消しつつ、頭のなかに響く愛する者に警告を発する声に耳を塞ぎながら。

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