第7場 幸福な計画(4)
ピアノを弾いていたせいで失ったのなら、ピアノを弾かないことは不幸を防ぐための有効な手段であり、また罰でもあった。そんな考えに縛られて、チェンバロに甘え、逃げていた。
けれど、いまは違う。
ピアノを弾くことも死者への慰め、償い、弔いなのだ。
そして、チェンバロは、それでも結架を受け入れてくれたのだった。
いまとなっては、ただ、彼らが望んでくれた音楽を高めていくことが、なによりの供養となる。
集一が救いを、赦しを与えてくれた。
結架は、そう信じていた。
「素敵な叔父さんだ」
結架の全身が歓びに弾けんばかりとなった。
「ええ、そうなの! 叔母も、そうなのよ! 薔薇と紅茶と、お菓子が大好きで、毎日、ケーキやクッキーを焼いてくれたわ。あのころの私はカボチャが苦手だったのだけれど、叔母お手製のタルトやケーキなら、ホールごと食べられたほど、絶品だったのよ」
はじめて見る天真爛漫な結架の表情は世界中を照らせそうなほどに光り輝き、太陽でさえ眩しげに目を細めたかもしれない。実際、これほど明るく能弁な彼女の姿は、叔母夫婦が存命中にしか見られなかったもので、この場にもし鞍木がいたなら、目を瞠ったことだろう。
「ああ、そうだわ。歌曲だったら、アントニオ・カルダーラの『わが心の魂』がいいわ」
不意に話題が選曲に戻ってきたので、集一は面食らいつつも応える。
「カルダーラって、ええと……神聖ローマ皇帝の宮廷で、楽長だか、副楽長だかになった作曲家……だったかな?」
「副楽長よ。持病に悩まされていた楽長を補佐する以上の素晴らしい働きぶりが認められたらしくて、お給金は彼のほうが高かったそうだけど」
こともなげに言う。
集一は思わず、そんなことまで勉強しただろうか、と、首をひねった。
たしかに音楽史、音楽理論、作曲家について筆記試験の前に猛勉強したものだが、彼らの待遇がどうだったかまでは覚えていない。
さすがに、モーツァルトがパリで就職出来なかったうえに母を客死させてしまい、さらには熱愛していた女性にも失恋してしまった、という立て続けの不幸に遭っていたことは、破壊力のある印象深さのせいか、よく覚えているが。
そう言うと、結架が小さく笑った。悲しむような、愛おしむような瞳で。
モーツァルトは、その無邪気で愛嬌にあふれ、善良だけれども有害とも見られかねないおふざけ──とりわけ『ベーズレ書簡』と呼ばれる、従妹マリーア・アンナ・テークラ・モーツァルトに送った破廉恥かつ卑猥な冗談に満ちた、度を越した良識の欠如としか思えない文章──と、数々の美しい協奏曲やソナタ、交響曲、そして、『フィガロの結婚』や『イドメネオ』、『魔笛』などのオペラ、さらにはミサ曲、モテット、レクイエムといった、端正で清澄な至高の音楽の楽譜を記した人間が同一であるなどと俄かには信じがたい、困った人物だ。当時の南ドイツにおいて、ごく親しい間柄のお決まりの話題が、彼の妻や息子たちと同様、現代人には理解しがたい内容だっただけであっても。ただ、それも彼の音楽があまりに見事で美しかったために注目され、丹念に研究された結果であるといえる。
三歳で三度の和音の美しさに酔い、五歳で作曲をはじめ、王侯貴族の城や宮殿で御前演奏をして喝采を浴びた不世出の天才が、まさか、〝きみの鼻の上に一発ぶっかますよ。そうしたら、きみの顎の下まで、それは垂れていくだろう〟とか、〝二週間後にはパリに旅立つけれど、今日も脱糞しておくよ。もし返事をくれるなら、急いでおくれね。でないと、もしかして僕は発ってしまった後で、受けとるのは手紙のかわりに僕が気張っておしりから発射したうんこということになりますから。うんこ! うんこ! おおうんこよ! ああ、なんて甘い言葉なんだろう〟などと書き記すとは。
幼い子どもが排泄物に興味と執着を示す様子を思わせる。
それでいて、妻コンスタンツェに宛てて書かれた彼の手紙には、現代の集一からみても、性的に成熟した大人の男性として彼女と濃密な関係を築けていなければ発しえない内容が綴られているのだ。やはり、
結架も、その手紙は読んだことがある。
長いあいだモーツァルト書簡集を読むことを禁じられていた結架がはじめてその部分を読んだとき、彼女は首を傾げたが、〝きみに手紙を書いている最中に頭を出して身を乗り出し、問いかけをしてくる、ぼくの小僧っ子〟が何をさしているのかを教えられると顔を紅潮させ、本を勢いよく、ぱたりと閉じてしまった。その様子を見て言われたのが、「サド侯爵のルネ夫人への手紙と並べて読ませてみたいものだね」だった。
『ぼくを好き? ほんとうに好き?』
会う人ごとに訊いてまわり、相手の答えに破顔一笑したり、涙したりしていたモーツァルトは、対する人物と同じだけ、べつの性格を持っていたのかもしれない。
生真面目なヴォルフガング。お茶目なアマデウス。そして、純真なモーツァルト、というように。
「そうね。モーツァルトは本人もそうだけど、両親と姉による手紙のやりとりがまめに残されていることと、子どものころからの広い人脈と多作が幸いして記録が多いから、小さな逸話まで有名だわ」
「コンスタンツェの再婚相手で、モーツァルトの伝記を著したニッセンは、むしろ彼への好意から、書簡を処分してしまったり、判読不可能に加工してしまったりしたようだけど。
そうして秘匿されたと思われる部分について、それをつまり彼の幼児性のあらわれだとしていたわけだけど、どうもドイツの特定の地域には日常的に汚物の会話をするのが親しい間柄である証みたいな価値観の時代があったらしいね。
妻との閨の関係を書き送った手紙も、まあ、同じ男性として、理解できるよ。ニッセンが完全に消し去らなかったのも、
すると、結架の眼が、三割増しで大きくなった。
「あなたも理解できるの?」
一瞬、集一は慌てそうになった。突然とはいえ、予想どおりの純潔ぶりを見せる結架を怯えさせないよう、言葉を選ぶ。
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