第7場 幸福な計画(1)

 ロレンツォ・デ・カヴァルリの請願を伝えると、結架は既に鞍木から聞かされていたようで、微塵も驚きを見せずに頬を輝かせて頷いた。

「お受けしますわ。誰が、なんと言おうと」

 自分で自由に仕事を選ぶことを望めないと言っていた絶望は、そこにはなかった。つまりは、この仕事は認められたのだろうか。ただ、ひとつ、気になる点がある。

「でも、チェンバロではなく……」

 ええ、と結架が頷く。

「良いの。あなたと一緒なら、なにも心配していないわ」

 穏やかながらも、確信に満ちた笑顔。

「それに、覚えていて? もしも、機会が与えられたなら、いつでも、どこでも、あなたのために弾きますわと言ったこと。それを、ロレンツォさまの金記章に誓ったのを」

 集一は胸を撫でおろした。

 それにしても、結架は反応が予想と異なることが多い。断るだろうと思ったときに、すんなりと受諾する。

 こうした親しい接し方も、彼女は急な別離を遠ざけられたと解った後にも続けている。

 カヴァルリ兄弟との会談の後。

 ミレイチェの言ったとおり、結架が皆にすべてを説明していたので、集一には詳しい話を求めてくる者はいなかった。そして、今夜の食事会を延期にするべきだとフェゼリーゴが主張して全員が同意すると、今度はマルガリータが解散を宣言した。

 ──ユイカを休ませなきゃいけないわ。シューイチも。この後に打ち合わせをするつもりなのだろうけど、程々にしておくようにね。

 それから彼女は結架の耳元で何ごとかを囁いた。それは、集一は勿論、ほかの誰にも聞こえなかったので、本人たちしか内容を知らない。以前のときのように動揺して頬を染めるような反応はみられなかったので、ごく真面目な話題であって恋愛事を煽るような内容ではなかったのだろうが、集一は自分が気にしていることを自覚している。だが、結架に尋ねるのは憚られた。

「曲目は、あなたとカヴァルリ氏で相談なさるのでしょう?」

 結架の問いかけに、集一が我にかえる。

「──ああ、兄君のほうと、ね。でも、きみの希望も訊きたいそうだよ。明後日、ここにおみえになるそうだ」

 結架が目を瞠る。細い手を口もとに上げ、彼女は首を傾げた。

「私たちが出向くべきじゃないのかしら……?」

 集一は、ずっと彼女を腕に抱きしめていたい欲求に駆られた。あまりに無防備で、心配になる。

「劇場外でカヴァルリ家と接触するのは避けたほうがいい。演奏会の日も、きみと僕は、別々に迎えが来るそうだから」

「そう。そうね……」

 目元が憂いに翳った。その暗さに、別の心配が生じる。

 彼は結架を驚かせないよう、ゆっくりと彼女を抱き寄せた。

「劇場内のこのフロアは、セキュリティが厳しい。許可された者しか入れないから、大丈夫だ」

「ええ。わかっているわ」

 二人とも、監視者の可能性に気づきながら、話題にすることを避けている。それぞれ自分の関係者だと思っているので、互いに不安を掻き立てることになるのを恐れていた。それでいながら用心深く行動するべきだという意思は一致している。

「ねえ、集一──?」

「うん」

 結架が、少し身を委ねて、不意に言った。

「思いつきなの。出来るかどうか、分からないけれど、モーツァルトの『きらきら星変奏曲』を、一緒にりたいわ」

 フランスで流行していた恋の歌である、『ああ、お母さん、あなたに申しましょう』の旋律を用いた、モーツァルトのピアノ曲。彼の死後に書かれた歌詞による童謡として、広く知られている。

 ハ長調からハ短調に転調したり、速度指定が緩徐に変更されたり、拍子が変わったりと変化に富んで、ただでさえ早いパッセージとアルペッジョの煌びやかな技巧が目まぐるしい。どの変奏も彼独自の屈託ない上品さをもち、第八変奏の短調も重々しくなり過ぎない、可憐な曲だ。

 幼い頃に見た国営放送の子ども向けクラシック音楽番組で流されていた、シンセサイザーによる多彩な音色が、集一の頭のなかに再生される。あれは、さまざまなフレーズに管楽器の音色を使っていた。第五変奏あたりはサクソフォーン。第一二変奏などはトランペットだった。

 ピアノ、オーボエ、ピアノ、オーボエ……と、主旋律の演奏楽器を交代させてみてはどうか。変奏一から奇数変奏をオーボエにすると具合が良さそうだ。偶数変奏でも、いかにもアドリブ、というような旋律を付け加えて、調和させれば……。

「……うん、いいね」

 二人の頭のなかで光り輝くモーツァルトが躍る。

 すぐにでも合わせてみたくなった。

 楽譜とピアノさえあれば、オーボエとの二重奏用に編曲できる。

 実に面白そうな試みとなりそうだ。

 結架の微笑が透明度を増した。

「明日から、どの時間帯でも使える練習室を用意してくれるそうだよ。つまり、ピアノのある部屋を」

 劇場の中にある、いくつもの控室や練習用小ホールには、ピアノを置いてある場所もある。ピアノを使用しないオペラやコンサートのときに保管する部屋も。

 王立劇場の支配人オルランド・タッソ氏は古典音楽の守護聖人パトローネッサ・ディ・ムージカ・アンティカ財団の賛助会員でもあり、カヴァルリ家と懇意の間柄だ。ジャーコモが要請をしたらしく、ミレイチェを通じて、そうした部屋の使用許可は得ていた。

 いつも使用している練習室よりも小さい一室が提供されるだろうとのことだ。二重奏なら、それで充分である。

 結架の興奮は、声にも滲み出した。

「すごいわ。明日には、もう合わせられるのね」

「まあ、アルビノーニのオーボエ協奏曲コンサートも、録音や本番はこれからだから、そちらが優先だけれど、ね。きみはチェンバロとピアノを弾き分けなければならないから、それなりに時間をかけても大丈夫だよ」

 ただの一音も、音のない一呼吸でさえも、決して妥協することのない演奏水準を保とうとする結架にとって、それは非常に有難い一言だった。

 時間に限りのあるなかでは、いま出来る最高の演奏をするしかないときもある。ただ、これまで結架は、充分に研鑽を積むことの出来る時間を本番前に求めてきた。幸いにして、その要望は、これまでのいつも叶えられている。

 勿論、どんな演奏家でも、日ごろの訓練や研究を精一杯に積み重ねてはいる。そうしてこそ、聴衆も演奏者も感動するほどの名演に巡り会えるのだから。

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