第7場 幸福な計画(2)

 指先で結架の髪をもてあそぶ集一が言った。

「僕は本番の後、ザルツブルクとグラーツでアマデウス管弦楽団とモーツァルトの協奏曲コンサートがあるから、一週間ほどオーストリアに行くけど、その後またトリーノに戻ってくるよ。それからロレンツォ卿の私邸コンサートまで二週間はあるから、その時間に仕上げよう」

「あなたが帰ってくるまで、私はこのままトリーノで待つわ」

 本来、アルビノーニのオーボエ協奏曲コンサートを終えれば、すぐ日本に帰国する予定だった。さらに、その後のスケジュールは白紙だった結架には、ロレンツォ・デ・カヴァルリ邸での演奏会に向けて準備するには、しっかり時間がとれる。

 集一のほうは、オーボエ奏者にとってごく身近な楽曲であるモーツァルトの協奏曲に今さらそれほど時間をかけることはない。勿論、手が抜けるわけではないが、さらうくらいで本番に臨めるだろう。だから、結架との二重奏の準備に、深刻な影響はない。

 あとは、曲目をどうするか、だった。

 結架は、ピアノでもヴァイオリンやフルートとの二重奏の経験が豊富だ。なにしろ幼いころから日常的に家族で合奏してきたのだから。

 もとは違う楽器のための曲として作られていたとしても、優れた曲であれば、適切に、真摯に演奏するかぎり、その魅力を損なうことはない。楽器によって出せる音域は異なるので、移調させなくてはならないことも多い。オーボエの音域は広いとは言えず、旋律が原曲そのままには出来ないこともあるので、それをいかに不自然にならないように仕上げられるか、編曲と演奏の技術がものを言う。

 そう教わってきた結架にとって、オーボエとの二重奏は初めてであるが、むしろ心躍るものだった。期待感に胸がわくわくする。

「鞍木さんに楽譜の手配をお願いするわ。日本から楽譜のデータを送って貰えば、早ければ今晩中には届く筈だもの。そうしたら、明日、やってみましょうよ。それからロレンツォさまに、さわりだけでも聴いていただいて、曲目に入れるかどうか、お伺いしてはどうかしら」

 結架のピアノ演奏暴露騒動の件でトリーノに呼び戻された鞍木は、ミラーノでのレコーディングの打ち合わせを延期させてきたらしい。二日後には再度、行ってくるということだ。それまでにカヴァルリ兄弟からの演奏依頼の調整などを進める必要がある。

「カルミレッリたちがナーポリから帰ってきたら、ここのホールで録音ですものね。慌ただしいけれど、しっかり準備したいわ」

「ミラノから録音技師さんが最新機材を持ってくるって聞いたけど」

 結架が頷いて、

「ええ、もともと日本でお仕事されていた方が、ちょうど昨年からヨーロッパにいらしているの。これまでに発表してきた私の録音作品の殆どに関わっていただいたわ。録音場所や編成によって使用する機材をかなりこだわって工夫する方で、そのぶん時間をかけるけれど、素晴らしい録音になるわ」

「僕の持久力がつかな」

 思わず呟いた集一の言葉が、平素の彼の努力を惜しまない姿勢、最高の完成度を目指す練習態度からは考えられないものだったので、結架は笑ってしまった。

「その点について懸念を持つのは、きっと、あなただけよ」

 楽しげな声で言う。

 結架は恐れが背後につきまとっていることを忘れそうになっていた。それはもう、彼女の行動を阻害する影響力をなくしている。集一が与える幸福感に全身を抱かれているあいだは、陽射しを浴びた氷のように溶けてしまうのだ。水だけを残して。

「心配すべきは、むしろ私ね。協奏曲の録音なんて、何年ぶりかしら。でも、不思議なほど、わくわくしているの。楽しみで仕方ないわ」

 子どものころ、こんな気持ちでいたことがある。多忙な叔母夫婦と出かけることになっていた日の前夜だ。結架の誕生日を祝うために、あちこち連れて行ってくれる予定でいた。どんなものに出会えるか、どんな楽しいことが起きるかと、嬉しくて、待ち遠しくて、眠れなかった。

 そして、フランス留学に旅立つ前夜も同じようだった。

 新しい環境や経験に飛びこむということは、結架にとって、元来、歓迎できるものだった。

 それによって誰かを傷つけたり、何かを失ったりする、そんな事態を招く恐れさえなければ。その恐れを心に突きつけられさえしなければ。

 いま、こうして集一の隣に立っていると、結架の心は、期待と希望で明るく晴れわたる。涼やかな彼の声が爽やかな風のように吹いて、結架は軽やかに羽ばたけるのだ。

 自分の髪のなかに埋もれる集一の指をつかまえ、結架が細い指を絡ませる。

「──鞍木さんにお願いする楽譜が、ほかにあるかしら?」

 その微笑の美しさに圧倒されて、ほんの一瞬、集一は声をなくした。いままでに見たことのない、明澄。

 喜びが、胸にわく。

「うん。器楽曲だけでなく、オペラのアリアも入れてほしいという、ご要望があるんだけど」

「オペラのアリア……声楽曲を?」

「そう」

 集一が頷いた。

「ロレンツォ卿も、ジャーコモも、イタリア・オペラの愛好家でね。とくにバロック期の作品に目がなくて。ヴィヴァルディとかスカルラッティとか、ローザのアリアを集めたコンサートを頻繁に企画しているよ」

「ローザ?」

 ヴェネツィアの音楽家にして司祭でもあったアントニオ・ルーチョ・ヴィヴァルディと、シチリア生まれでスウェーデン、ナーポリの宮廷楽長をつとめ、イタリア各地で活躍したアレッサーンドロ・スカルラッティは、ともにバロック時代の作曲家で、結架もよく知っている。

 ヴィヴァルディは音楽家でなくとも知っているほど有名な作曲家だ。そしてスカルラッティはアレッサーンドロの息子、ドメーニコが多くの優れた鍵盤楽曲を残しており、ピアニストでその名を知らない者などいない。

「うん。サルヴァトール・ローザ」

 それを聞いた結架の表情に、集一は意外に思った。

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