第6場 寛容

 結架は全員の前で、順序立てて説明をした。

 前夜に集一から電話があったこと。

 そこで彼が困りきっているのを聞き、断られると承知の上で、それでも頼まずにはいられなかった気持ちを推し測り、すすんで酒場での演奏を引き受けたこと。それが幼いころからピアノ演奏をしてきた、今までのどの瞬間より喜びであったこと。

「私はチェンバリストです。現在いまはピアニストではありません。言い訳でしかないかもしれませんが、そう思って、お引き受けいたしました。誰にも私と知られることさえなければ、これはただ、善意の演奏で終わる、と」

 誰も、ひとことも返さない。

 しかし、結架は、もう揺れなかった。

「どうしても、見過ごせませんでした。いいえ、むしろ、僥倖でした。私が彼の力になれると思ったら、嬉しくて、悦びで踊りだしたいほど。私は昔、ピアノから逃げたはずだったのに、取り戻したくなってしまいました。チェンバロしか弾かないと決意していたはずなのに、彼のためにピアノを演奏できる私になりたいと思いました。

 自分が不適切な行動をとったことは弁解できません。皆さまに、こんなにも迷惑をかけてしまったことも。でも、私は、どれほど責められても、お叱りを受けても、それは仕方のないことだけれど、私自身が心から望んだことだから、だから、後悔だけは、出来ません」

 結架の瞳は潤んでいるが、もう涙は流さなかった。

「勿論、本当に心から申し訳なく思っています。でも、それでも、同じことが今夜また起きても、私はきっとピアノを弾いてしまいます。だから、もし、皆さまが私を」

「ばかね」

 マルガリータが微笑んで、遮った。

「あなたはチェンバリストよ。ピアノなら自由に弾いても良いじゃない。わたしも、そう思うわ」

 優しい腕が伸びて、興奮に紅潮した結架の両頬を包む。柔らかく、慈愛に満ちた感触だった。

「それでも出来るかぎりの配慮をしていたのは、わかってるわ。皆、ちゃんと解ってるわよ。あなたもシューイチもね。騒ぎが起きたことは反省すべきだけど」

 その続きをフェゼリーゴが言った。

「起きてしまったものは仕方がない」

 そして、アンソニーが引き継ぐ。

「でも、致命的ってわけじゃない」

 レーシェンも微笑む。

「否定する余地もあるでしょう」

 結架が泣き出す手前の顔をして見渡すと、全員が許容の表情でいるのが見えた。激怒していたカルミレッリも、まだ目もとには無理をしている強張りがあるものの、唇には笑みがある。

「……誰よりも大切な人を、なんとしてでも援けたかった。手を貸すことが出来るのに、保身から、無下にするような真似はしたくない。そんな人間には、なりたくない。それは、ぼくだって、きっと同じように思うよ。ユイカが困っていたら、ぼくだって、出来ることをする」

「カルミレッリ……ありがとう」

「でも、このことで、ユイカが楽団から抜けるのは嫌だ」

「それは、みんな、同じよ」

 マルガリータの真剣さに熱がこもる。

「ユイカ。どうなるの?」

 彼女は申し訳なさそうな笑みを浮かべた。

「カヴァルリ家のご先代がいらして、すべて任せなさいと仰せになったの。何もかも予定通りに。騒ぎも収めてくださると、理事も仰ってくださったわ」

 全員の顔が輝いた。

「本当⁉︎ ねえ、ミレイチェ!」

 結架の後ろに控えていたミレイチェも、控えめな笑顔で頷く。彼は結架が逃げたくないと言ったので、説明を彼女自身に委ねて黙って見守っていた。

 鞍木も、最初こそ結架と一緒に頭を下げたが、彼女が自分で話すと言って譲らなかったので、その決意を尊重していた。

「じゃあ、シューイチは? まだ、カヴァルリ氏に叱られてるの?」

 カルミレッリが少々の悪意ともとれるような笑みとともに言う。しかし、フェゼリーゴが苦笑で否定した。

「ジャーコモ・デ・カヴァルリ氏はシューイチと懇意でいらっしゃる。それに公正無比なお人柄ですから、彼だけを叱るということはありませんよ」

 出来れば叱られればいいのに、という言葉は飲みこんで、カルミレッリは頷く。

「ふうん。まあ、でも、ユイカに怖い思いをさせたんだから、もうしばらくは反省してほしいところだね」

「あら、カルミレッリ。あなたって結構、執念深いのね。五分くらいで、けろっとしてそうだと思ったのに」

「マルガリータってば、失礼!」

「あんまりしつこいのは、ユイカも好きじゃないと思うわよ?」

「えっ」

 ぎくり、と、硬直する。

 思わず結架は声を上げて笑ってしまった。

「そう? ねえ、ぼく、しつこい? ユイカ」

 周章あわてるカルミレッリの無邪気さが、ふわりと心を軽くした。結架は全員に感謝の思いを伝えたくて、仲間たちの顔を見つめる。

「でも、嬉しいわ。私のために怒ってくれて。あなたにも、皆にも、どうしたら、この感謝を伝えきれるか分からないくらい」

 すると、アッカルドが穏やかに言った。

「これまで以上に素晴らしい演奏をしましょう。その感動こそ、わたしたちが求めてやまないものですから」

 結架の両眼が煌めく。

「はい……! ありがとうございます。本当に、皆さん、ありがとう」

 その姿を、鞍木は父親半分、兄半分といった心境で眺めた。

 こんな結架の姿こそ、彼が長い間、見たいと思い続けてきたものだ。この姿を信じたからこそ、彼はイタリアに結架を連れてきた。この仕事を受けさせた。

 彼女に、ごく自然な人付き合いを自由に持たせてやるために。

 これがずっと続けばいい。

 鞍木は心から願った。そのために、自分は何が出来るかと考えながら。

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