第5場 よき領主の治めるところ(5)

 押し黙った集一の憂悶は深い。ジャーコモが目にしたことのある、どんな大家たいかが製作した彫刻よりも整った顔立ちは、そんな暗い表情でも美しく思わせる。

 ジャーコモは、自分が異性愛者であって良かったと、しみじみと思った。そうでなければ、切ない想いに身を震わせる万能人ダ・ヴィンチや、露西亜ルッスィアの大作曲家のように苦しんだかもしれない。人生の道筋まで左右されてしまうほどに。

「そう闇雲に怖れても仕方がない。警戒は最大の警備だが、だからといって、外に出ないわけにもいかないのだから。第一、君の父上は、今回の演奏会については協賛しておられる。一直線に疑ってはいけないよ」

 ところが、集一の顔は晴れなかった。

「だからこそ怪しいのですよ」

「根深いようだね」

「……協賛なんて、本心からとは思えない。なにか企んでいるに決まっています」

 いつもは清雅な集一の瞳に、昏い影が立ち込める。それは無理もないことと思われたが、それだけに、ジャーコモには残念だった。

「たとえ君の言うように本心からの協賛ではないとしても、この件を報告した際に協賛の撤回をなさらなかった。それどころか、無償で調査費の出資提供を申し出られた」

 集一の驚きは、トランペットを吹いたらベルから飛びだしてきたのは音ではなく卵で、それを割ってみるとウサギが出てきた、という事象に出くわしたとでもいうようなほどのものだった。信じがたく、しかも、有益でも何でもない、と。

 むしろ頭を悩ませる厄介ごとが増えた、と言いたげなことが、ありありと解る表情をする。

「君は、どうも、お父上のこととなると感情的になるね。冷静に考えてごらんなさい。記事と、お父上は無関係だよ。でなければ、騒ぎを利用しない筈がなかろう」

「……それは、この後にあるのかもしれません」

 ジャーコモは、そこで諦めた。

「仮にそうでも、君は屈しないだろう。無論、わたしもそのつもりだ。とにかく、相手が誰であろうと、注意深くすることに変わりはない」

「ええ、勿論」

 闘志を漲らせる集一に、一歩も退く気配はない。

 彼は心から望むもののためには、あらゆる努力をする、覚悟と決意を固めていた。

 ジャーコモは、そのたすけとなるべく、手を差しのべる。

「そこでだね、シューイチ。ちょっとした頼みをきいてくれるかね」

 支援される者は、ときに逆の行為によって助けられる。

「なんでしょう」

「ロレンツォが、ふたつの演奏会を発案したのだよ。ひとつは彼の私邸で行われる個人的な集まりでの演奏を頼みたい。もうひとつは、財団とカヴァルリ社の主催で開く予定だ。場所は未定だけれど」

 集一の笑みに、僅かな困惑と疑念が混じる。

「カヴァルリ家と財団のお申し出に断る理由はありません。喜んで、お受けします」

「君と同じ返答を、ロレンツォは、ミス・オリハーシにも望んでいるのだ」

 集一は呆気にとられた。

「まさか、彼女にピアノを?」

 そのために、私邸での個人的な集まりという場においての演奏を所望したのだろう。今度は徹底して秘密を守れるように。

「彼女は引き請けてくださるだろう。ただ、依頼をすることを、君に事前に伝えておくべきかと思ってね」

 ロレンツォ、ジャーコモ兄弟の目から見ても、結架の、いまの心の均衡は、集一が支えているように思われたのだ。さらにロレンツォは、酒場での、二人の様子を見ている。結架の手をひいていたのは集一であった。一瞬、青褪めた彼女を勇気づけていた手の持ちぬし。

 しかし、正直なところ、集一は拒みたかった。

 結架は今でも恐れるだろう。

「君に頼みたいのは、彼女が、その演奏会で孤立無援となることを防いでもらいたいということだ」

「つまりは、共演デュオしろと?」

 結架のピアノ伴奏で、オーボエを吹く。それは、たしかに彼には願ってもない。しかし、時期尚早に思われる。

「確かに僕の念願でもありますが、いまの彼女の状態で、それは酷です」

「いまを逃せば、二度と機会は巡ってこないかもしれない」

「……そうでしょうか」

「勿論、どうしてもということであれば、オーボエとチェンバロの二重奏デュオでも良いが、おそらくロレンツォは彼女にピアーノフォールテ独奏も依頼するだろう。それならば──彼女の負担を考えればという意味だが──最初から楽器は統一したほうが、望ましくはないかね?」

 それについての集一の答えを待たずに、熱意を込めた、それでいて少し軽妙さも混ぜられたジャーコモの声がたたみかける。

「それから、誤解しないでくれたまえ。わたしたちは君の演奏をも望んでいる。君と、彼女の縁組デュエットを」

 ため息とともに集一が困惑の笑みを浮かべた。

 彼はイタリア語に堪能ではない。音楽用語としてのみ、それを理解している。だから、ジャーコモが言ったduettoデュエットという言葉が、『似合いのふたり』という意味も持っていることも、言い争いとか、動物の吠え合うさまを表すことも知らない。だから、結架と二人で奏でる、というふうにだけ解釈した。当然、発言者の善良かつ友好的な真意を正確に掴んではいなかったものの、ジャーコモに答えた集一の言いようには、理解しているかのような部分があった。

 片手を挙げて、集一は降伏する。

「……わかりました。これ以上、お話ししても、お引きにならないでしょう。ただし、彼女に無理強いは出来ません。僕の望みは伝えますが、彼女も同じように僕との二重奏デュエットを望んでくれるかは、なんとも言えませんよ。それでも宜しいですか」

 集一の笑みは諦めと戸惑いをたっぷりと含んでいたが、ジャーコモは確信を持っていた。結架は応じるだろう。話があるから残ってくれと集一に告げたとき、彼女の表情にあったものを、しっかりと見ていた彼には解る。

 結架は集一の請願を断れない。

 ロレンツォが二人の演奏デュエットを熱望しているのは本当だ。

 これからさき、こんな機会が、そうそう巡ってくるとは思えない。結架が海外での演奏活動をこれから増やしていくとしても、老齢の彼が出向くことの出来る会場で開催されることが、どれほどあるだろうか。彼の存命中に。

 それを考えれば、ジャーコモは兄の希望を叶える協力を惜しむわけにはいかなかった。

 愛妻を亡くしてから、ずっと気を落としたまま、毎夜、酒場で寂しげに時を過ごしていた兄。

 その灰色の瞳から、長らく消えていた彼本来の精彩が、結架の演奏を聴いた夜、戻ってきたのだ。残された人生を無為に過ごしてしまうのではなく、大切に、笑顔で楽しんでほしい。一族の皆で願った。それが、彼女の演奏で叶えられるのなら。

 ジャーコモは、青年の力を借りるのに躊躇わらなかった。

 そして、それは青年にとっても支援となる筈だった。

 彼は、彼女と離れがたいのだから。

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