第5場 よき領主の治めるところ(4)

「それでは、これで、この件については充分でしょう。ミスター・クラキ。お父上には既に詳細の書類を送ってあります。近いうちに連絡をさせていただくので、そのおつもりで」

 鞍木の内心に警戒が小さく芽吹いたが、頷くしかない。

「承知しました」

「ミス・オリハーシ。わたしも演奏会を楽しみにしていますから、これまでどおりの準備をお願いしますよ」

「はい、ありがとう存じます。お言葉のとおりにいたします」

 神妙な結架の返事の横に立つ鞍木は、複雑な感情が頭の隅で警告を発するのを聞いた。カヴァルリ氏の言った不愉快な疑問というのと、その警告の声は、鞍木の考えの中では密接に関わっている。

 結架をイタリアに連れてきたのは正解だったのか、彼は自信を持っていたが、その道の行く末を案じてもいた。

 どれほど心配しても、応援しても、歩いているのは結架だ。立ち向かうのも、倒れるのも、進みつづけるのも、ほかの誰でもない、彼女なのだ。鞍木には、手を貸すことは出来ても、代わってやることは出来ない。

 ロレンツォと結架の会話は、イタリア語を解さない鞍木には内容を理解することが出来なかった。それでも間近で様子を見ていれば、結架にとって僥倖であったことは容易に察せられる。この出会いが将来的に希望となるのかどうかは、現在いまは、まだ判断できない。しかし、結架が心強い人間関係の絆をあらゆる方面に持つことは、鞍木も望んでいることだった。

 鞍木は、これからする電話で話すべき事柄が増えたのを知って、まずは社長である父親に連絡しなくてはなるまいと考えながら、辞することにした。

 丁重にカヴァルリ氏に挨拶をしてから、結架を促す。

 壁際に、彫刻像のように沈黙して立っていたミレイチェが微かに口元に笑みを漂わせ、扉を開けた。結架は、その手をとって謝辞を述べたそうな視線を向けたのだが、彼は手振りだけで支配人室を出るようにと示す。

 退出しようとした三人の耳に、カヴァルリ氏の何気ない調子の声が飛び込んだ。

「ああ、シューイチ。君と少し話をしたい。残ってくれるかね」

「ええ」

 途端に結架が再び不安に表情を曇らせ、無言のままに、哀願するような瞳でカヴァルリ氏を見つめたが、彼は朗らかに、その視線を受け止めた。やわらかな語調と身振りで彼女のおそれを宥める。

「友人として話が出来る機会を、逃したくないものでね。わたしには、心安く話せる若い友人が、それほど多くはいないものだから」

 すこし和らいだ瞳が今度は集一を見上げる。彼は明るく微笑んだ。礼儀上、彼にも通じるように、英語で手早く最低限だけを伝える。

「説明が遅れて、すまない。ジャーコモは、僕がコンクール行脚をしていた頃からの支援者なんだ。ずっと僕の力になってくれていて、恩人であり、友人でもある。だから、心配しなくて大丈夫だよ」

 ようやく結架は緊張を解いた。

 深く長い安堵の息とともに頷く。

「それなら、私は先に戻って、フェゼリーゴとマルガリータたちに、このことを報告します。きっと、とても心配させてしまっているから、早くお伝えしたいの」

「わかった。鞍木さん、申し訳ないのですが」

 鞍木は当然、受容で応えた。

「心得てるよ」

 扉が閉まる前に見た結架は信頼しきっている顔つきで、集一はすこし気が咎めた。嘘はひとつもついていないが、いろいろ話していないことがあるのだ。だが、鞍木とミレイチェが彼女を連れて行くときに見せた視線を裏切るものではない。

 カヴァルリ氏の声に振り向く。

「わたしが訊きたいことは、わかっているんだろう」

 ため息で応える集一に、さらに言った。

「君が望んだことを、わたしは叶えてきたつもりだ。その価値が君の日頃の人品にも、演奏にもあると、そう信じているからね。だが、今回は一瞬、疑ってしまった」

「なにをですか」

「君こそ記事を書いたのではないか、と」

 集一は、さすがに両目を見開いた。そこまで彼が考えていようとは、想定していなかったのだ。

 思わず語調が強くなる。

「僕に、彼女を苦しませるようなことは出来ない」

「わかっているよ。だが、シューイチ。ひとつ、確認しておきたい。君は演奏会の企画当初にわたしに出した条件と、今回の彼女へのピアーノフォールテ演奏の依頼が、全くの無関係であると言えるのだね?」

 間髪を入れず、集一は即答した。ありったけの誠意を、正直な気持ちとともにこめて。

「勿論です。彼女にピアノ演奏を頼むことになるなんて、思ってもみなかった。たしかに、その幸運を喜んでしまいましたが、それは僕だけが独占できる歓びであると考えたくらいです。わざわざ世に知らしめるなんて、意に反します」

 とても説得力のある正直さだった。

 ジャーコモの両眼にある親しみが深まる。

「ユイカ・オリハーシのピアーノフォールテ演奏、という幸福を独り占めしたかった君には、その事実を自慢するよりも、秘するほうが歓びであったというのだね」

 すると、集一は珍しく憮然とした。

「ジャーコモ」

「そう腹を立てるものではないよ。すくなくとも君の望みは自然なもので、罪ではない」

「それは、そうでしょうが」

「兄が言っていたよ。熱心な彼女の信奉者ロレンツォでも、あのカーテンと抑えられた照明に邪魔されて、しかも、劇場にすら最近は出演しないような著名演奏家だという先入観で、ピアーノフォールテ演奏者の正体には気づけないだろうと。

 あの記事は、決して、偶然にあの場に居合わせた人物のつくったものではありえない。そして、ほんの数時間で、つくられたものでもない」

 集一の瞳に、ながく見られなかった、鋭い光がともった。

「……どう思われますか」

 ゆるゆると、ジャーコモはかぶりを振る。

「わからない。だが、ロレンツォの孫たちは優秀なプログラマーだ。出版業界も紙から電子媒体に移行していきそうな傾向を示していてね。二人とも熱意がある。不正な書き込みは、もう不可能だ。

 現在のカヴァルリ一族の総帥である、わたしの甥のエウジェーニオも、協力を申し出てくれた。主要な音楽雑誌からゴシップ誌まで、よけいなことは書かないよう、手を回してある。これ以上、勝手な真似を許すことはないよ」

 それでも充分ではない。

 集一が懇願をこめて尋ねる。

「記事の出所を突き止められませんか」

「調べてはいるが、難しいようだね。実在する人物の氏名を用いて干渉するわけでもないから」

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