第5場 よき領主の治めるところ(3)

 フィレンツェ一の美男子と誉れ高かった弟のジュリアーノに対して、兄のロレンツォ・デ・メーディチは、浅黒い肌に厳めしい顔貌であったようだ。いまに伝えられている肖像画は、笑みを浮かべていながらも相手の背を伸ばさせるほどの威を放つ。濃い色の瞳に宿る眼光は鋭く、唇にある笑みも尊大に見え、漂う剛毅さは頼もしく見えるものの、親しげで温和な表情が灰色の瞳の中まで満ちているロレンツォ・デ・カヴァルリの与えるような安心感は、あまり期待できない。

 若いときから人望があったというので、人格者であったのは間違いないだろう。ただ、王侯貴族の地位にはなかった時代にあっても、祖父コージモによって徹底した帝王学を施された豪華王は、たとえ陽気な人柄であったといわれているのが事実だとしても、やはり特別な存在として生きるよう求められていた筈だ。決して近寄りがたくはないけれども、軽々しくは接することの出来ない、尊者のように。

 対して、カヴァルリ家のロレンツォは、そうした威圧的なところが一切なかった。引退して一年の自由な時間が、彼にそうしたゆとりを生じさせたのかもしれないが。

 穏やかな笑顔が、結架を心から安堵させた。

「とにかく、スィニョリーナ。この件のことは、これきりお忘れになるがよい。そして、これから先、困るようなことが起きたら、わたしに声をかけておいでなさい。このロレンツォ・デ・カヴァルリの目が届くところで、これ以上、あなたが不安を感じるようなことは、断じて赦しはしませんから」

 ひざまずかんばかりに、結架はこうべを垂れた。

「はい……! はい、いと高き御方ヴォストラ・アルテッツァ。あたたかなお言葉とお力添えに感謝いたします。あなたさまこそ、私には、神からのお慈悲に思われます」

 気安く言われれば、カトリックの信仰篤い者には却って不快となるような言いようだったが、心底から敬虔なまなざしの結架の声は真剣であり、また彼女は日本人でもあり、カヴァルリ兄弟は寛闊に受け入れた。

 たとえ根幹は同じ教えでも、解釈によって宗派が分かたれるように、感じかたも心持ちも変わるのだから。

 そして、ロレンツォは最後までイタリア語を貫いた。

「──では、そろそろ、わたしはここを離れなければ」

 涙ぐむ結架を軽く抱擁し、挨拶を短く、しかし愛情深く交わす。

「コンチェルトには、わたしも参りますよ。素晴らしい演奏を期待しています」

「はい。必ず」

 それから、彼は弟に手を挙げてみせた。

「わたしが横から手を出すのは、ここまでにしておこう」

 弟のカヴァルリ氏が、首を横に振りながら微笑む。

「わかっている、ロレ。ただ、ジューリオとアルドには、もうしばらく調査を頼みたい」

「勿論だ。二人には、暫く財団に出向してもらう形をとるよう、エウジェーニオに伝えてある。おそらく大丈夫だろうが、おまえが確信できるまで、二人には引き続き作業させよう」

「ありがとう」

 兄弟の会話のあと、ロレンツォは、ようやく集一と鞍木に視線を向けた。

 彼は、二人のイタリア語学の習得度がどれほどのものかなど全く尋ねることもせず、話しかける。

「アポローとバックスは、ムージカを護る。あなたがたも、心正しき者として、彼女ユイカを護りたまえ」

 音楽ムージカを守護する、ローマ神話の神々の名前を聴きとった彼らは、おおよそのロレンツォの意を汲み、英語ながらも諾意を以って応えた。さきほどからの結架の様子を見ていれば、ロレンツォがどのような内容の話をしているのか、おおまかに推測がつく。そのうえで音楽の守護神たちと結架の名前を口にされれば、言わんとすることも自ずと解る。

「はい、そのつもりでいます」

「勿論です」

 表情も声も真剣な二人に満足げに頷いて見せ、ロレンツォは、もう一度、結架の肩を軽く抱いた。

「元気をおだしなさい。あなたには味方が大勢いる」

「ありがとう存じます、ヴォストラ・アルテッツァ」

 鷹揚に頷くさまは、まさに王者のようだ。それでいて、決して相手に卑屈を要求しない。媚び諂いではなく、矜恃を持って対してくる相手を求めた。公正無比に。

 扉の外で控えていた従者のような男性を連れて去っていく兄を見送り、ジャーコモ・デ・カヴァルリが、全員に通じる英語で言った。

「兄の言葉のとおりです。演奏会は予定通りに行います。そして、記事の対応は、すべて事実無根であるとします。ですから、あなたがたが謝罪する必要はありません」

 やわらかな口調に、鞍木が大きく首を縦に振る。

「心から感謝します。ミスター・カヴァルリ」

「ミスター・クラキ。あなたには、近々、別の仕事を手配していただくことになるでしょう。ミス・オリハーシにも。ですが、その話は、またいずれ。

 今回の事態については、兄とわたしで、すべて片づけます。結果をお知らせするまで、なにひとつ心配なさらずに、なにも知らないという姿勢を保っていてください。協賛会社も承知していますから、なんの妨げもありませんよ」

「重ね重ね、御礼を申し上げます」

 鞍木の堅苦しい言葉に、カヴァルリ氏の頬は緩んだ。

「わたしは兄から頼まれていますから。彼ほど信心深くはない、わたしですが、どうも今回は神の御手によるものを感じています。わたしも彼と同じく、あなたがたを責める気持ちは、全くありません。詳細について訊くつもりも。兄から状況を聞いていますから。

 記事を書いた人間の正体については不愉快な疑問が残りますが、真実と認める必要性はないのですから、泰然自若としていれば、いずれ忘れられるでしょう」

 それから、彼はイタリア語で結架だけに向けて言った。ロレンツォよりも青みの強い瞳に喜びを輝かせて。太陽に照らされた、広く澄んだプールの水が、海の波とは違って落ちついていながらも、ときおり瞬間的に強い閃光を放つように。

「スィニョリーナ。兄に生きる活力を与えてくださって、深く感謝しています」

「そんな……。私は、なにも」

 しかし、彼は微笑みで結架の言葉を封じた。すべてを、正確に認識しているといった様子に、彼女は圧倒される。ただ、彼は詳しくは語らなかった。

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