第5場 よき領主の治めるところ(2)

「私のほうこそ、あのような貴重な贈り物を賜りましたお礼を、充分にいたしておりません」

 老紳士の喉を、明るい笑い声がゆすぶった。

「いやいや、あり余るほどだ。あなたほどの音楽家の演奏には、滅多に巡り逢えるものではない。だが、どうやら困ったことになったそうだね」

「はい」

 結架の弱々しげな微笑に涙の気配が見えると、彼は優しく彼女の手をたたいた。夜の廊下に横たわる闇の冷たさに怯える小さな娘を宥めて安心させようとする父親のように、愛情深く、悠然と。

 その微笑みには、あらゆる苦境や災厄をものともしない、これまでの人生経験からくる強い自負があった。現在の難儀も針小棒大だと言わんばかりの。

「心配なさらないでもよい。弟とは話したが、あなたを楽団から外すことはない。演奏会も予定通りに」

「兄さん」

 主導権を完全にロレンツォに握られているジャーコモが、横から呼びかけた。ただし、そこに苦笑めいた響きはあっても、咎めるような調子はない。どうやら、引退しているとはいえ、兄の権威は揺るがないようだった。

 それをロレンツォ自身も承知しているらしい。

「あのような記事など、些々たること。相手にしてしまわぬことだ。この部屋を出たら、困ったことなど忘れておしまいなさい。すべて、わたしに任せればよい。任せてくれますかな?」

 きらきらと少年のように灰色の瞳を輝かせ、ロレンツォが結架を見つめる。活き活きとした、自信に満ちた明るさが、事態の深刻さを吹き飛ばしていた。事実、彼にはそうできるだけの人脈と権力がありそうだ。

 結架は思わず吐息を漏らす。彼が終始イタリア語で会話してくれるおかげで、彼女は言葉を選択するのに、集一の心を傷つける心配を抱えこまずに済んだ。第三者からの冷静な視線を意識した言葉を用いる。

「昨夜、私の為した我儘な行為の経緯について、なにひとつ お尋ねにならずにいらして、なぜ、そのように格別な温情を施してくださいますのでしょうか?」

 それを聞いたロレンツォは、心底から不思議そうな顔をした。

 彼女が立場を越えた昨夜の行為に後悔していないながらも、周囲に責められることを信じて疑わないでいるのが、不思議なのだった。実際、彼女はまだ自分から謝罪を口にしていない。ただ、責められても当然と覚悟している。

昨夜さくや、あの店で、あなたにピアーノフォールテを弾かせたもうた御方は、わたしに慈悲を与えてくださった。きっと神であり、あなたの亡くなった、お母さまでしょう」

「え……?」

「昔、ヴェローナのサローネで妻とともに聴いた演奏者がいたと話しましたね。あなたと同じくらい素晴らしい演奏であったと。昨夜は無礼にも、あなたに気づかず、お伝えできなかったのですが、その奏者こそが、ルーリカ・オリハーシ。あなたの、お母さまです」

 結架は瞠目した。その大きな両目に、みるみる涙が浮かぶ。意外な人物の名前を聞きとった鞍木が怪訝そうに眉をひそめたが、耐えて沈黙を保つ。

 ロレンツォの言葉は、ことさら緩慢に、優しく、しかし重々しく、説法する聖職者に似た語調になった。

「おわかりかな。すべては天の為されたこと。ですから、あなたを責める理由は、なにひとつありません。それから、あなたは我儘な行為と言ったが、エリック・サティのぶん、わたしが加担していることも、お忘れなきよう」

 厳かな口ぶりながらも表情は無邪気で、彼は結架にしか見えないように片目を閉じてみせた。

 結架の頬に、ばら色が咲く。

 ほっとしたあまり、美しい響きのため息を放った。

「ああ……偉大なる御方イル・マンニーフィコ

 思わず口をついて出た言葉にロレンツォが反応する前に、結架は言いなおす。

素晴らしく尊き御方ヴォストラ・マンニフィチェンツァ

 すると、彼は心から嬉しそうな笑顔で応えた。

メーディチの豪華王ロレンツォ・イル・マンニーフィコも、あなたに、そう呼ばれていたのなら、もっと和んだ表情の肖像画を残せたことでしょう」

 彼と同じ名をもつフィレンツェのかつての支配者、ロレンツォ・デ・メーディチ。祖父が銀行業によって築き上げた莫大な富を引き継ぎ、レオナルド・ダ・ヴィンチやミケランジェロ・ブオナッローティ、サンドロ・ボッティチェルリらの後援者としても知られる。カヴァルリ家が財団を設立して、芸術家を支援しているように。

 豪華王と呼ばれるが、実際、彼は王ではない。このころフィレンツェは王制ではなく共和制国家であったからだ。しかしながら、実質的に支配していたと云ってもいいほどの権力者であった彼は、フィレンツェ市民からは厚い信頼と憧憬を寄せられ、かぎりなく、王と呼ぶに近い存在だった。

 名家としての地位を築いたメーディチ家の当主としては四代目であり、彼ののちの時代には、実子と養子が、それぞれの時の教皇となる。一族はたびたびフィレンツェを追放されたが、そのたびに復権して、ついにトスカーナ大公家となるのだ。

 初代トスカーナ大公となったのは、ロレンツォと母が枢機卿にと願っていた弟──若くして聖職者に暗殺された──ジュリアーノの遺児であり、養子としたジューリオ・デ・メーディチ──教皇クレメンス七世──の息子、アレッサンドロであるのだから、歴史とは、なんと劇的なものか。

 そうした名門、メーディチ家の歴代当主たちは、おなじ名前をもつ者が多く、区別するために綽名が付けられている。

 メーディチ銀行創始者であるジョヴァンニ・ディ・ビッチ・デ・メーディチの息子は、老コージモコージモ・イル・ヴェッキオ。孫は痛風病みのピエロピエーロ・イル・ゴットーゾ、というように。

 そして、時期尚早とばかりに教皇からの爵位授与を辞退した曾祖父の念願を叶えるかの如く、七〇人評議会なる政治の中枢機関を束ねたロレンツォ・デ・メーディチは、君主への敬称である、『偉大なるイル・マンニーフィコ』という綽名を献じられた。この称号は、単独で使われる場合、彼を指す。

 結架はロレンツォ・デ・カヴァルリに対して、あくまでも尊称として呼びかけたのであったが、まぎらわしいうえに、ことによると失礼にあたると気づき、すぐさま呼びかけを変えたのだ。ただ、呼ばれた当人は、なにもかも承知のうえで、結架の言葉を受け入れたのだった。

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