第4場 よき羊飼いの見守るところ(4)
鞍木は、集一の言いたいことを、ほぼ正確に推察できた。だから、思わず口もとに微笑を浮かべた。
「勿論だ。結架くんが心から望まない限り、君を無理に結架くんから引き離すことはしない」
それを聞くと、ようやく集一は部屋を出ることに同意した。
「ありがとうございます、鞍木さん」
結架の頬を撫でるようにしながら、手を離す。
「では、外で、お待ちしています」
結架には、頷きだけを言葉の代わりに残し、彼は廊下に出た。その姿が扉の向こうに隔てられた途端、結架は自分の得た自由からも隔てられたということに気がついた。彼なしには、権利も希望も主張することは難しい。出来ないわけではなくとも、その裏付けを、堂々と見せられなくなるのだ。
がちゃんという扉の閉まる音が、結架には、自分のなけなしの勇気が無残に割れる音のように聞こえた。いつも破片を集めて貼り合わせている、前向きな心が。
鞍木が口火を切った。
「今の集一くんの話からも、ホームページの無断掲載記事にあった酒場の写真から見ても、とても客の中にあの場で君に気づいた人間がいるとは思えない。かといって、彼に依頼をしてきた酒場の関係者が記事を書いたわけでもなさそうだ。君が話をしたという老紳士も、君のことに気がついた様子はなかったんだろう?」
緩やかな動きで、結架は鞍木に向き直る。
「ええ。そういった感じではなかったわ」
「だったら、一番に怪しいのは、ワルツ嬰ハ短調をリクエストしてきた女客だ。でも、君は対面していないんだったな」
結架が頷いた。
「私ではなく、本来ピアノ演奏を務めるはずだった亜杜沙さんが対応してくださったから」
鞍木が数秒間、黙り込む。
「君のことを事前に知っていたのは、酒場の経営者と、その知人母娘、それから集一くんと、君自身だけなわけだ。実際に君を見た人間にも、よほど近くに来ない限りは、君の素性を見抜けはしなかった。しかも、演奏中はカーテンに遮られて君の姿は見えない。唯一、君を間近で見られたのは、君が演奏者だと認める発言をした老紳士だな。
もしも老紳士と女客が同一の目的を持っていたとしたら、あの記事が発生した理由としては成り立つ。しかし、その目的は二人にはありそうに思えない。少なくとも初対面である老紳士に、君を陥れるような意志があっただなんて、とても信じられない」
「なにが仰りたいの?」
鞍木の両眼が、昏く光った。
「あいつが動いているのかもしれないってことだ」
結架が戦慄するのを目の当たりにしても、鞍木は続けた。
「あいつは出国する前、おれに君を監督するように強く言ってきた。おれは約束をしたが、あいつが信じたとは、どうも思えない。あいつにも仕事を強いてきたから、日本から
「やめて!」
悲鳴のような叫びを発して、結架が頭を抱えた。
「そんな気配はなかったわ。私が気づかないと思って? あれほど気をつけていて、なにも感じないとでも? いいえ、いつも、いつも気を張っているのよ。自分を抑えつけて、悩みを生むような人間関係を築くことのないように。でも、もう、無理だわ!」
「結架くん」
扉が開きはしないかと、鞍木は危惧した。
この声が聞こえたとしたら、集一が飛びこんで来ることは自明なことだ。しかし、いま、すべてを説明することは避けたい。鞍木には、まだ、集一の想いがどれほどのものなのか、測れずにいる。
「生まれたときから、お父さまが望まれるままにしてきたわ。私の音楽は、お父さまのものだった! だけど、もう、お父さまは、いない。お母さまも」
今度は胸を押さえ、彼女は苦痛を
「鞍木さん。私、帰りたくない」
いつか聞くかもしれないと考えてきた言葉を耳にして、鞍木は表情を固まらせる。
「私がピアノを弾いたのは、自分のためだけなの。ずっと、叔母と叔父を死なせる事故を招いたピアノが、私の罪だと思ってきたわ。弾けば、また、不幸を呼ぶかもしれない。でも、今回、ピアノを弾くことで困っている彼を助けられると知ったとき、それは、祝福になった。
私は、ピアノが弾ける自分を天に感謝したわ。これこそ許しだと感じた。彼が与えてくれたのよ。だから弾くことが出来た。彼に必要とされるために、自分のために、弾いたの」
自分自身を嘲笑しつつ、結架は、それを手放せない。
「私、彼を愛しているんだわ」
決然と、断言した結架だったが、その瞳は迷いに揺れる。
「どうしよう。どうしたらいいの、鞍木さん。私、彼を巻き込みたくなんかないのに。なのに、離れたくないわ。
今回のことで、解ってしまった。私には集一が必要なの。なにがあろうと、誰が阻もうと。それなのに、知られたくないの……。こんな矛盾に、引き裂かれそう。その上、彼と一緒にたくさんの曲を演奏したい。いろいろなものを見たい。話したい。そんな新しい望みが毎日、増えていく。自分のまわりに、どんどん望みが張り巡らされて、息もつけなくなっていくわ。恐ろしいことだと解っていて、やめなければと思うのに、自分では、どうにも出来ない……!」
──まだ、知られるべきではない。知られてはいけない。少なくとも、いまは。
鞍木は、そう思った。
結架が立ち向かう決意を固めるまでは、なんとしても、秘密にしておかなくてはならない。そうでなければ、おそらくは集一が、なんらかの痛手を
絶望を目の前に感じたもの特有の脱力。それが、結架の声から張りを失わせた。
「あの記事が、もし、私に対する警告なのだとしたら」
青褪めた顔に悲痛が立ちこめている。
「私は集一を避けなければならないの?」
それこそ、彼女にとっては地獄の苦しみだ。自分の心を認めた以上、それは渇望を自ら捻りつぶすようなものである。手にしたばかりの香り高い薔薇を、花弁が開ききる前に握りつぶすような。
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